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2006.3.28 |
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反全体主義本の紹介…団塊世代の、自称「ダーウィンおたく」、行動生態学・進化生物学者が著した“研究者としての成長記録”本を読んだ。(1)流石、ダーウィンの記述が光っている。 ダーウィンは、人種の差異を性淘汰で説明したかったと看破しているからである。 一寸昔は、肌の色は、種の違いだと考えていた人がいた位で、こうした環境下で、科学を武器にして新思想を打ち出した訳である。これこそが、科学の役割だと思う。 もしも、時代の状況と、科学の成果を対比する、こうした視点を欠いていたら、それこそ、面白エピソードを詰めただけの、有名学者の自分史本に映りかねなかった。もっとも、それを喜ぶ読者も多いから、それはそれで意味があるのだろうが。 俗流「種の保存」型自然淘汰論と、ダーウィンが提起した本質論の違いがわかるように平易に解説してある点も秀逸である。その原則を引用しておこう。 (1) 種内には、さまざまな個体差が存在する。 (2) それらの個体差の中には、親から子へと遺伝するものがある。 (3) それらの遺伝する個体差の中には、 生存と繁殖に関して有利なものとそうでないものがある。 (4) 生まれてきた子どもたちの全員が成熟するわけではない。 個体にとって、変異が有利か不利かが基本ルールである。その結果、統計的に種全体に影響がでてくることになるが、種全体にとって、この変異が有利なのか、不利なのかはわからない。結果として不利なら消滅するかもしれないということ。 俗流論とは、「種の存続」のために個が行動することになる。 もっとも、俗流論が力を持つのは、ダーウィンの自然淘汰論の世界だけではない。 著者は、『利己的な遺伝子』を解説したトンデモ本を苦々しく眺めているようだ。 遺伝子自体が、自分の意志で、利己的に振舞うイメージを広げたいトンデモない俗流論派が多いのである。 著者は気付いていないようだが、どの分野でも、訳のわからぬ俗論を囃すことで、社会を動かそうとする人は少なくない。 しかし、そんな勢力が横行するのは、ドグマ論者が力を持ち続けているせいでもある。素人が見ても、古臭い理屈を後生大事にしている人達が多ければ、目新しい話に飛びつきたくもなろう。 著者の分野でも、全体に対して個が奉仕する鉄則が存在しているとのドグマ論者が主流らしい。 「1980年代の半ばごろ、霊長類以外の動物の行動と生態の研究者の間では、もうすでに遺伝子淘汰の理論が普通になっていた。・・・しかし、霊長類学会は違った。・・・中略・・・私は、日本の霊長類学会とのつきあいをやめた。」そうである。 著者は『利己的な遺伝子』派なのである。 と言っても、ダーウィンの思想と変わるものではない。 個体は、あくまでも、自ら生存と繁殖のために行動する。集団はそのために必要なものにすぎない。集団存続のために生きている訳ではないということ。 個々の動きの結果が、特定の遺伝子を残すことに繋がるのである。 要するに、科学とは、思想闘争なのである。 --- 参照 --- (1) 長谷川眞理子「進化生物学への道―ドリトル先生から利己的遺伝子へ」 岩波書店[グーテンベルクの森シリーズ] 2006年1月 (2) Richard Dawkins:“The Selfish Gene”Oxford Univ. Press, 1976 日高他訳「生物=生存機械論−利己主義と利他主義の生物学」紀伊国屋書店, 1980 → 「利己的な遺伝子」 1991 ゲノムの時代の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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