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■■■ 本を読んで [2015.5.26] ■■■

「青」書を読んでみた

  青は青銅の青であり
  沖縄の海の青であり
  他界の色の青である。

という谷川民俗学解説書のコピーを知っていたので、ついついどんな内容の新刊本か気になって手が伸びてしまった。

著者は谷川民俗学的に、ご自分の足で取材を重ねる民俗研究者。「サンカの真実 三角寛の虚構」(文春新書)という本で、厳しい差別を受けながら箕(穀物のからと実を振り分ける農具)を農山村で売り歩いて漂泊する人々の実像を描いたことで知られる方らしい。
  週刊現代]2013年3月2日号]

序には、こんな文章が。・・・
青=墓地・墓所 だったと言えば、
 「ほとんどの人が
  まず眉に唾を塗ることだろう。」
 「安直な思い付きかこじつけと
  とられれるかもしれない。」

ソリャ、そうだろう。
しかし、それは、著者の方が指摘しているように、この本の主張が常識から離れすぎているから受け入れられないということではなかろう。
日本の信仰は重層的で、と言うか雑炊化している為、一体どこが最古層なのかさっぱりわからないからだ。古代はこうだったと言われても、ナンダカネとなる。

と言うのは、南海の「青島」が墓地を意味する場合があったとしても、そのこと自体は驚きでもなんでもないからだ。護法螺貝やその模造石が墳墓から副葬品として出土しているのだから。
しかし、この信仰が連綿と続いた訳ではない。馬具が入ってきたり、北極星信仰が加わったりしているからだ。にもかかわらず、すべてに「青島」信仰を当て嵌める発想は飛躍のしすぎでは。実際、海の彼方の常世の国だけでなく、根の国や、黄泉の国もあれば、補陀落、西方浄土、神山と、霊が行き着く先の信仰は多岐に渡る。しかも、古事記を読む限り、「青島」に合致しそうな常世の国信仰が一番の古層とも思えない。

少々説明が必要か。
大陸の中華帝国から見れば、日が昇る東の海を支配するのは、天に登れる「青」龍。従って、青色とは、常識的には海の藍色だが、同時に海に浮かぶ神の島に生える「命の木」の青々した緑色でもある。
倭語の「あお」を、この「青」と見なしたのだから、概念的に重なったと見るしかなかろう。

そうなると、この感覚をどうとらえるかだ。

「再生」と見なすのが妥当だろう。
東の海に浮かぶ島で太陽が生まれ変わり、新しい姿を見せると考えたなら、自ずとそうならざるを得ないからだ。海人から見れば、「青島」とは、再生が繰り返される、常世の国の入口ということになろう。

従って、そのような地に、遺骸を運び、再生を願うのは、自然な流れ。しかし、第一義的に墓地を意味しているとは思えない。原始道教的には不老不死の仙人が棲む島な訳で。
  「神仙神話の見方」[2015.5.14]

色彩としての概念も、はっきりさせる必要があろう。別に難しい話ではなく、単なるものの見方にすぎない。例えば、こんな具合。・・・

昼間、太陽が照っている明るい状態が「あか」。その正反対が「くろ」。明るいと暗いという概念が内在している訳で、赤は活力の根源色とも言えよう。当然ながら、精気を養うとされる、紅、朱(丹)も赤のカテゴリーに入ることになる。
  「赤 v.s.黒」
黒とくれば、現代では明度の用語としては白になるが、古代には、そのような概念はなかったと見てよかろう。おそらく、白とは、強く、鋭く、鮮烈で、神々しさを感じさせる、尖がった状況を指していたのだと思う。海人からすれば、それは強い日差しを浴びて光る砂のイメージそのものである。
この正反対は淡いだ。つまり、「青」の概念は色相ではなく刺激度。だからこそ、緑色だろうが、藍色だろうが、すべて包含してしまうのである。青とは深みを感じさせる光ということ。
  「白 v.s.青」
  「日本の色彩感覚は全く違っていたのではないか」[2011.2.16]
色彩感覚から言えば、「和多津の荒磯の上にか青なる玉藻」という句がわかり易そう。そして、信仰的な色彩イメージの代表例としては「青の」香具山となろうか。

(本) 筒井功:"「青」の民俗学 地名と葬制" 河出書房新社 2015年3月30日

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