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■■■ 本を読んで [2015.9.19] ■■■

日本語の美しさの考え方

かれこれ10年か。
本屋さんの店頭に、「美しい日本語」のPOPとともに、似たような本がズラズラと山積みだった頃がある。日本語危うしキャンペーンが奏功したとされていたが。
・・・と考えながら、手に取ったのは「大和ことば」ご推奨本。
どんな著者かと見れば、「美人の日本語」で当てた方らしい。想像に過ぎぬが、ファン向けに次々と続編を出版しておられるのだろう。出版社がここぞとばかり跳びつくのは間違いない訳で。

小生からしてみれば、語彙を丸暗記し、言葉遣いだけ練習したからといって美しくなれるか、はなはだ疑問。ヒトはトータルの雰囲気で人となりを判断する訳で。
拙宅のご近所さんには、「ごきげんよう」の世界に住む方々がいらっしゃる。かなりの高年齢と思われるが、そうは感じさせず、魅力的な美人が多いのは間違いない。ただ、小生の生活リズム感とはえらく違うので、お話のお相手を勤めるのはなかなか大変である。と言っても、違和感が生まれる訳ではなく、それなりに愉しいもの。
しかし、その真似はことのほか難しかろう。

「見目麗しく情けあり」と「幾久しくお幸せに」の世界の絵本という気もしたが、せっかくだからどんな内容か眺めてみることにした。

そうそう、小生の場合、こうした本に登場する言葉はジャーゴンと見るクチ。それを知らないとお付き合いできない用語だからだ。当然ながら閉鎖的社会の言葉となりがちであり、それは致し方ない。
「曖昧」な表現を旨とし、部外者は誤解し易い会話が多いからだ。その真意を言葉で確かめるのは失礼に当たるのだから、それで結構という人以外は遠ざかっていく。一般には、こうした言葉は、対立や摩擦を避けるための知恵とされており、この気遣いこそが素晴らしいと絶賛する人は少なくない。、だが、グローバルな時代の意思疎通からすれば厄介千万。
話す方は「優しい」言葉として誇るが、聴く方は「狡猾な」人々と感じるだけだからだ。そういう人々とは、表面上で適当に付き合っておけとなろう。従って、親密になって、どうしてもインサイダーになろうと考える人以外は、この言葉の良さを堪能することはできまい。

そんなこともあり、断片的な大和言葉を語るより、万葉集に触れる方がよいのではないかという気がする。
万葉学者の本の方が、小生は意味があるように思う。流石に、注釈なしには、なにがなにやらの世界であるし。ただ、その解釈が正しいのかはよくわからぬところがあるが。でも、そこが面白さでもある。

小生など、昔、中西本を読んで、ビックリしたことがある。
デンデン虫を、雨降に登場する渦巻き模様の虫だから、雷様のペットということで電々と愛称が附いたとばかり思っていた。人にそんなことを言ったことは無いが、そんな感覚を見事にひっくり返されてしまったのである。「出で」虫だというのだ。観察して命名したのではなく、呼びかけ言葉だと見なされると、正にコペルニクス的転回。
しかし、考えてみれば、その通りという気になってくる。角よ出よ出よという訳で。マイマイというのも、「舞え、舞え」とデンデン虫に呼びかけた言葉から。
平安貴族が優しく接していた様子が思い浮かんで来るではないか。言うまでもないが、表記は「蝸牛」でよいのである。カギュウとは絶対に読まず、ルビがふって無い限り、カタツムリ、デンデン虫、あるいはマイマイのどれだろうがかまわない。これこそが情緒的表現豊かさの象徴。

しかし、中西本は、もっぱら「ひらがな」語彙。まあ、淡交社本だし、字体を考えると、その方が美しいのは間違いないが。
それに、「ひらがな」にことさら拘りたかった気分もあったろう。多くの「大和言葉」本は、その体裁にもかかわらず、そこでのご推奨姿勢は、感謝、品性、人情("なさけ"ではない。)の重視だったりするから。音読みの漢語だらけと耳にすれば、思わずムッとするのでは。
でも、漢字離れ表現に拘るのは避けて欲しい。それこそが、万葉の精神と見るからでもある。表現手段はあくまでも100%漢字だが、そこでの純粋漢語は僅か。といって、表音文字として使っているとも言い難い。重要な箇所は表意文字として使われており、読み替えや冗談半分も。もちろん、流行りの中華文化や仏教用語を暗示させる箇所もあり、実に豊か。なにせ、天皇から防人までと、詠み人の多様性は驚くほど。言葉遣いも違っていたに違いないが、歌には共通文化基盤があったことになる。だからこそ後世になっても人々を惹きつけるのである。

おわかりだろうか。
規格化された「純粋性」ではなく、雑炊的な表現を追求している意義を。それだからこそ、心根の「純粋性」を保てるというパラドックスが存在する訳で、そこにこそ「美しさ」が存在するとの思想が根底にあるということ。
従って、大和言葉に漢字を「当てる」ことに意義アリと主張して欲しいところ。
漢字無しの、ひらがなのみの文章は、日本語に流れる哲学の否定に近い。

その辺りをそれとなく示唆しているのが、上野本である。
永久をエイキュウと読むか、"とわ"、あるいは、"とこしえ"と読むか。それらの違いを感じさせる著述になっている。

美しい日本語をまもる式の本の欠点はこの観点が欠落していること。
たいていは、助詞の使い方がおかしくなっているとか、外来語だらけとかいう話から。まあ、始皇帝のように言語を国家が定めた規格で標準化し、それに全員諾々として従うのが嬉しい国家社会主義者が多い国になってしまったから致し方ない訳だが。
もともと、漢字にしても渡来語。日本列島は、その時代時代の覇権国の文化を取り入れて融合していく風土であり、行き過ぎは問題だがたとえそれが嫌いだろうがそれを容認するしかない。しかし、それまでの伝統も受け継ぐという離れ業を続けて来たのが日本語。おそらく、そのような言語は他になかろう。

そう考えると、今の最重要な問題は、渡来語反乱とか、滅茶苦茶な助詞の使用方法ではなかろう。
上述したような、「永久」の読みができなくなっていること。エイキュウとしか読めないのである。
日本語の美しさは、漢字を表意文字と見なし、その読みが色々とできる点。だからこそ、繊細で微妙な表現ができる訳で、それを「心の機微」を伝える手段としてきたのだと思う。文法ではない。
その観点で見ると、キーボードあるいは音声入力機能の向上で発生する副作用には注意を払っておく必要があろう。機能向上は有り難いが、変換技術の展開方向によっては、このような言葉の楽しさを伝える文化を消し去る可能性があるからだ。それこそ、最悪の場合、漢字を表意文字(象形文字という意味ではない。)として利用してきた文化を根底から覆すことになりかねない。文字を手書きで覚える必要がなくなり、複雑な文字も誰でもが使える時代に入り、実に嬉しい限りだが、複数読みができなくなる方向に進んでしまうと、表音文字化に突き進んでしまう。それは、日本語の根源を揺るがすものであるから、用心した方がよかろう。

美しい日本語を護るには、ジャーゴンを消すとか、ダメ口を無くすことより、なにがなんでも語彙力を保つことだと思う。その辺りの危機感がいかにも乏しいのが大いに心配である。

(本)
山下景子,大島資生[監修]:「日々の会話が華やぐ大和言葉」 笠倉出版 2015.6.10
上野誠:「さりげなく思いやりが伝わる大和言葉 : 常識として知っておきたい美しい日本語」 幻冬舎 2015.6
中西進:「美しい日本語の風景」 淡交社 2008

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