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■■■ "思いつき的"仏像論攷 2015.9.1 ■■■

吉祥天の剛腕さ

吉祥天というと、昔読んだ、和辻哲郎の「古寺巡礼」(青空文庫所収)を想いだす。風情を味わうということでなく、純粋な仏像鑑賞話だったのが新鮮な感じがしたから覚えているのだと思う。鄙びた里の寺歩きで有名なのは、亀井勝一郎や堀辰夫だったが、ソレらとはトーンが違っていたからである。もっとも、そんな雰囲気に浸れることができた時代は今何処。

吉祥天はバラモン教の美福の女神シュリイで 毘沙門天(多聞天)すなわち富神クヴェラを夫としている。仏教に摂取せられてすでに金光明経などに現われているから 日本でも古くより崇拝せられていた。特に天平時代は金光明経が国民全体の福祉のために盛んに用いられた時代で、吉祥天の崇拝もまた盛んであった。天平末に政府が吉祥天女画像を国分寺に頒わかったごときはその一端であろう。・・・
この種の吉祥天女像では浄瑠璃寺のが特に優れていると思うが、その優れているのはやはり美人像としてであって神像としてではない。・・・
三月堂内の閉ざされた廚子のなかに塑像の非常にすぐれた吉祥天女像があるのを見た。・・・堂々たる作で、女人の形姿を女神の姿にまで高めている。が「天女」として「女」の感じを強調した痕は著しい。


小生も含め、これを読んで浄瑠璃寺に足を運んだ人は少なくないと思う。
しかし、それは吉祥天の宗教的本質を、見て見ぬふりをすることに他ならない。仏像観賞とは得てしてそんなものだが、吉祥天だけは特別。それに気付くまで、小生は相当な時間を要した。

切欠は、梅原猛:「隠された十字架・法隆寺」の主張。
コレを知らなければ、今でもそれがわからなかったろう。梅原説は強引な展開に感じるが、そのことが、逆に、そんじょそこらのハウツー型仏教解説がとんでもなく恣意的な叙述で埋め尽くされていることがわかる仕掛け。そして、愕然とさせられる訳だ。
言うまでもないが、その主張とは、法隆寺が太子怨霊鎮魂のために再建されたとの説。コレをどう感じるかはヒトそれぞれだが、小生は、「国家鎮護」仏教とはそういう意味だったのかと、初めて気付いたのである。

金光明経(義浄訳「金光明最勝王経」)とは、聖武天皇採用の国家鎮護経典。光明という諡号でわかるように皇后もそれを強く推した。その結果建立されたのが、東大寺。西大寺との対の俗称でしか呼ばれないが、本来的には「金光明経四天王護国之寺」。国分寺とはその派出所のようなもの。
このお経の本質は国家鎮護だが、それはあくまでも為政者たる国王のためのもの。統治が上手くいくからこその仏教信仰なのである。
つまり仏法によるご加護で鎮護国家を実現しようとの取組。

そこでの、肝心要は仏像。華厳経の盧舎那仏もさることながら、金光明経で鍵を握るのは四天王と吉祥天。(弁才天を付け加えてもよいようだが。)目立つのは大仏建立だが、お寺の正式名称と重要な法会を見れば、吉祥天あっての大仏ということがわかる。

さて、これと梅原説とどうかかわるか、書いておこうか。

「隠された十字架」の題材はあくまでも法隆寺だが、そのストーリーには大前提がある。この時代、すでに怨霊概念が広まっていたということ。法隆寺ほどの大規模な伽藍建築が必要なほど、怨霊を防ぐ必要があったということになる。いかに恐ろしいものと認識されていたかがわかろうと言うもの。
つまり、政敵を抹消すれば、怨霊のリベンジが待ち構えていると、皆わかっていたことになる。それなら、避ければよさそうなものがだ、そうはいかない。国家には、血みどろの権力闘争は必ずついてまわるものだったのである。
従って、聖徳太子が中央集権化を図るためにイの一番に「和」を掲げたのも、むべなるかな。いかにその遵守が難しいかを、如実に示したものと言えよう。
聖武天皇の「金光明経四天王護国之寺」建立の意図はそこにあると言ってもよかろう。「和」という理想論の主張ではなく、現実を見据えた実践論で行こうということ。つまり、「国家鎮護」の根幹に、権力闘争の結果生じる怨霊から為政者を護る目的があった訳である。そのための法会のお堂整備は第一義的な政策課題と見て間違いなかろう。

東大寺の法会と言えば、どうしてもお水取りの「修二会」に注目してしまうが、先ずは、正月の「修正会」を見るべきである。それこそが、お寺創建の原点だろう。
なにせ、仏への懺悔儀式の正式な国家行事化なのだから。
「天下泰安」「風雨順時」「五穀成熟」「万民快楽」等を祈願するとされるが、懺悔あってのもの。そう、今流なら、一年を振り返り、反省するということになるが、当時で言えば、その筆頭項目は血腥い権力闘争以外にありえまい。
この法要の源流は「吉祥天悔過会」とされる。
どう考えても、十分に懺悔したかを吉祥天が判断し、それでよしとなると、夫たる毘沙門天(多聞天)が筆頭の四天王に指示して護ってくれるとの考え方。吉祥天の采配で運命が決まりかねないのだから、これほど重要な儀式は他になかろう。
もちろん、東大寺だけではない。法隆寺の「吉祥悔過」(金堂御行)は768年から、薬師寺の「修正会吉祥悔過法要」は771年からで、現代迄、綿々と続いているそうだ。

そんなことは、和辻にとっては常識中の常識だったのだろう。あくまでも、そうした宗教活動を踏まえての吉祥天像評価と、わざわざ冒頭に書いてあるからだ。それを踏まえて観賞すると、色々な気付きがあるゾと言っている訳だ。しかし、読む方が余りに浅学だと、そんなこととは露知らず。

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