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「新風土論」
2015年9月13日

殷の帝も蛮夷戎狄の類が出自

殷はいかにも、奴隷制を基盤とする国家に映る。
その初代天子 契の出自はツングース系民族とされているようだ。東夷臭芬々の夏王朝[→]から、北狄の王朝に変わったことになる。

神話の基本構造がツングース系によくある「卵生説話」だからか。しかも、母の名前が簡狄だから、「北狄」と見なすのはいたって素直な感じを受ける。
しかし、「卵生説話」なら、そのメッカは南方の島嶼域だろう。それに、玄鳥による妊娠。これは燕を指すと思われるが、夏候鳥だから、南方渡来ということになる。純粋のツングースでは無いということでは。
それに、ツングース系であれば、神が憑依するシャーマンのお告げが政治の中心になる筈。それと、殷の占トは違うのでは。占トは"霊的憑依"ではなく、専門家が"知識"を駆使して天の声を読み取る仕組みである。これは西域の遊牧民の動物骨焼占トや、南海島嶼民の海亀甲羅焼占トの風習に近いのではないかという気がする。
異民族の知恵が導入されているのかも。

殷墟@河南省安陽小屯の状況からみて、西域の羌族を生贄にする習慣があった点にも注目すべきだ。
いかにも、遊牧の移動族らしき儀式。遊牧民は、草原で異なる部族に遭遇すれば、殺戮か奴隷化のどちらかの道を選択せざるを得なかっただろうから。そこら辺りの文化が「道」(+首)という文字の由来でもありそうだし。

そうそう、文字だが、ツングース系はシャーマニズム信仰の部族だから、必要とは思えない。祖先から引き継ぐ文化を第一義としているなら、殷王朝が関心を示すとは思えない。ところが、考古学的には、甲骨文字記載出土品は殷代からなのだ。(史記を眺めると、常識的には、三年不言の帝と記載されている、武丁"高宗"が「文字化」を図ったと見るべきだろう。)
文字は、殷が発明したものでないとすれば、西域オアシス定住民からの移入と考えるべきだろう。移動民の時々に行う占トがオアシス都市で変化を遂げたことになる。オアシス定住民は遊牧民との接触無しには繁栄できないが、イザコザは絶えないので、始終天の声を伺うことになる。その結果を遊牧民にも伝達する必要があり、それは記号の方が好都合だからだ。

もしもそうだとすれば、殷とは、出自は北狄だが、オアシス都市の連合政治形態生み出した西戎方式を農耕定住民の中原地域に敷衍した勢力となろう。
奴隷の常備軍を都市に設置することで、合算すると数的には超巨大な戦力を保有することになる。この力で広大な領域を確保することに成功したのであろう。
要するに、自称「商」とは、それぞれの都市を指すだけのこと。「殷」とは商の連合体を意味する訳だ。

そして、B.C.1046年、殷王朝は周王朝によって滅ぼされる。
始祖は帝舜の時代とされている。首都はB.C.771年に洛陽に移るまでは、西安の西の河沿岸の鎬京。
その周王朝の支配が及んだ範囲は、宋の時代の五分の一でしかない。中華人民共和国の領土で言えば中原と呼ばれるほんの僅かな面積。・・・
  成周之世、中國之地最狹、以今地裏考之、
  呉、越、楚、蜀、 皆為
淮南為群舒。
  

  河北真定、中山之境,乃鮮虞、肥、鼓國。
  河東之境,有赤狄、甲氏、留、鐸辰、國。
  洛陽為王城,而有楊拒、泉皋、蠻氏、陸渾、伊

  京東有莱牟、介、
也。
  杞都雍丘、今之屬邑、亦用夷禮。
  近於魯、亦曰

  其中國者、獨晉、衛、齊、魯、宋、鄭、陳、許而已、
    通不過數十州、蓋於天下特五分之一耳。

   [洪邁:「容齋随筆 卷五」1180年]

中華思想の根本にあるのは、天子独裁の巨大帝国実現ということがよくわかる。
意思疎通が可能な直接支配地の住民は「大漢民族」と見なされ、その周囲の民族は蛮夷戎狄の「少数民族」とされる。万難を排して、それらの蛮族を支配し、そのなかから有能な官僚を登用して統治を進める。そして、「大漢民族」化を図るのである。
例えば、誰でもがその名を知る匈奴だが、万里の長城まで造らざるを得ないほどの強大な勢力だったにもかかわらず、その面影はどこにも残っていない。「大漢民族」に完璧に内包されてしまったのは明らか。
その思想は現代社会にも受け継がれている。なにせ、帝国化を目指すことを誇らかに宣言するかのような国名の、"中華"民国であり、"中華"人民共和国なのだから。このことは、民族自決許さずである。(連邦制否定)蒙古族やウイグル族だけでなく、中央アジア"少数民族"を支配するのも当然との考え方が底流にある。すでに、満洲族とチベット族は漢化が進んでおり、朝鮮半島も例外とされる筈がなかろう。・・・そもそも、朝鮮開国之君 李成桂(出自は高麗の地方豪族。女真族からの養子とも。李氏の氏族系譜書「完山実録」では中国人と記載とか。元に属するツングース系高麗王朝の血統を根絶やしにして、明王朝属国化を図ったからか。)は、中華帝国 洪武帝から「朝鮮」という国号を下賜してもらい立国したのである。漢の武帝が滅ぼした王朝名。
“東夷之号、惟朝鮮之称美、且其来遠、可以本其名而祖之。
  体天牧民、永昌后嗣。”


  ─・─・─殷王朝の系譜─・─・─
(→)
契【賜姓子氏 功業】
  殷契,母曰簡狄,有氏之女,為帝次妃。
  三人行浴,見玄鳥墮其卵,簡狄取呑之,因孕生契。

→昭明→昌若→曹圉→冥→振→微→報丁→報乙→報丙→主壬→主癸→
天乙(履)"成湯"@亳[河南省偃師]
  湯遂率兵以伐夏桀。
  湯乃踐天子位,代夏朝天下。

→(太丁)卒;[太丁之弟]外丙→[弟]中壬→[太丁之子]太甲"太宗"→沃丁→[弟]太庚→小甲→[弟]雍己【殷道衰】→[弟]太戊"中宗"([臣]伊陟)→中丁@于→[弟]外壬→[弟]河20150;甲【殷復衰】→祖乙【殷復興】→祖辛→[弟]沃甲→[兄祖辛之子]祖丁→[弟沃甲之子]南庚→[祖丁之子]陽甲【殷衰】→[弟]盤庚@故居→[弟]小辛【殷復衰】→[弟]小乙→武丁"高宗"【殷國大治 殷道復興】
→祖庚→[弟]祖甲【殷復衰】→廩辛→[弟]庚丁→武乙@亳から移動【無道,震死】→太丁→→乙【殷益衰】→
[最後]辛"紂"【以酒為池,縣肉為林】
  諸侯皆曰:「紂可伐矣。」
  周武王於是遂率諸侯伐紂。
  ---紂兵敗。紂走入,登鹿臺,衣其寶玉衣,赴火而死。
  ---殷民大説。於是周武王為天子。
   其後世貶帝號,號為王。而封殷後為諸侯,屬周。



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