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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.9.21] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[72]
−鳥居考 [極楽東門]−

伊勢神宮の式次第での記述は、ことの他重要である。

日本人の信仰について考えざるを得ないからだ。
と言うか、日本的アニミズムについて、お茶を濁す程度のお話で済ませなくなるとも言える。面倒この上ないが、小生の感じるママをまとめておこう。

日本のアニミズムは、汎神教かつ多神教である点が特徴。(そんな訳のわからぬことを言う人はいないだろうが。)
無生物を含め、ある概念について名前をつけることができた瞬間、そこに霊の存在を感じる宗教なのである。生物、無生物、空想、すべてが含まれるから、八百万の神が存在するという表現は正しい。ここだけとれば、汎神教そのもの。ただ、これは大前提でしかない。
汎神教ではあるものの、社会生活者の一員だから、皆と情緒的に共有できる重要な霊を決めておく必要がある。それが神である。ここだけ注視すれば多神教徒ということになる。もちろん、神の数に制限がある訳ではなく、ヒエラルキーも決まっているものではなく流動的と言うか、重要度が場当たり的に決められることさえある。従って、一神教徒から見れば、極めてご都合主義的な薄っぺらい信仰者に映るだろう。だが、根底に汎神教がある限り、そうならざるを得ない。
つまり、特定の神を重視するということは、そこらの近しい精霊をないがしろにしていることを意味する訳で、それが精神的に耐えられなくなれば状況は突然にして変わるのである。
一神教の対立概念としての多神教とは根本的に違う。

このような見方で、鳥居を社殿の屋根なし門と見なすとの記述を読めば状況はたちどころに見えてくる。

汎神教的アニミズムの世界では、社殿は造りようがあるまい。門という概念自体意味が薄い。拝礼の場には結界としての鳥居があれば十分なのである。

一方、祖先とか、貴人あるいは超人という場合は、モノとしてとらえ難いからどうしても社殿は必要である。結界としての門はあってもなくてもよいが、儀礼形式が整えられれば不可欠になるのは当然であろう。

西洋的には、この2つは全く異なる信仰と見ざるを得ないだろうが、日本のアニミズムは両者は相互浸透していて境界が無いのである。全く違う宗教を習合している訳ではない。

精霊はしばしば擬人化された表現がなされるが、それは現代常識でそう書かざるを得ないだけ。例えば信仰対象の山は、衣替えするし、歩くし、結婚もする。粗末に扱えば立腹するし、喜んでもらえればたいていは見返りがある。そこらは、人格神となんら変わらない。

従って、繰り返しになるが、トリイの原点は結界の注連縄を張っただけのもの。
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これを社殿対応にするには、単に大きくするだけでよいが、日本の湿潤な気候下では縄はすぐに朽ち果て、清浄感が失われてしまう。それを避けるには、横木を上に載せる以外に手はなかろう。しかし、一本だけでは強度的に持たぬから、一番簡単な構造としては二本となる。
従って、本来的にはトリイは素の丸太4本からなる建築物ということ。(伊勢神宮の鳥居は、構造を支える横木が単なる貫ではなく、楔を入れているのでは。本来的にはすべて丸太という訳でもなさそうだから、見かけと違って、建築技術に重きを置いた設計と言えよう。)
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ここで、俄然、伊勢神宮の門の記述が輝いて見えてくる。屋根有りの門も並列的に存在するからだ。
屋根有りの門の基本形は言うまでもなく、寺院伽藍の門である。屋根無しはあり得ない。上記の流れからすれば、鳥居は屋根無しになるのだが、屋根を象徴するような形態にすることで、仏寺的な鳥居にすることも可能なのである。

それはどのような経緯で生まれたのか、想像させてくれるのが四天王寺の鳥居。縦柱は円柱だが、他はすべて角。笠木が反り上がり屋根的なデザインの角材なのが特徴。(構造上、島木と呼ばれる角材が笠木の下に入る。貫は角材で縦柱を貫通する。)神仏混淆の権現様の境内入口で見かける明神型。

聖徳太子が戦勝祈願成就で創建@593年と伝えられる、日本最初の官寺 荒陵山四天王寺は南北一直線構造であり、正面は南の大門で、伽藍の中門(仁王門)へと続く。東西にも大門があり、西大門(俗称:極楽門)の外側にはさらに花崗岩製石の鳥居がある。この鳥居は、1294年に、木造を改め再建したとのこと。神仏習合の元祖が朽ち果てぬようにしたかったのだろうか。
かかっている扁額は1326年の銅鋳造。
 釈迦如来 転法輪所 当極楽 東門中心
ココが極楽浄土東門ということだから、当時は難波の海に沈む太陽を眺めることができたのであろう。

現実には、このお寺の建造物は古いママ残っている訳ではなく現代復活ではあるものの、信仰は綿々と続いてきたためその面影を留めていると見てよかろう。
ご存知のように、576年創業の金剛組が建築を担当したと言われており、百済人指導のもとで寺院建築の基本技術がこのお寺で確立したと見てよかろう。建築用語"トリイ"はこの時生まれたのではあるまいか。物部守屋の妖怪と目される"寺つつき"を聖徳太子の成り代わりの白鷹が退治するのだが、その止まり木も造作くとして組み込まれている筈。[→]

ここで、社殿には"鳥居"門が必須との思想が確立したと言ってよいのでは。

その結果、山岳信仰が色濃い修験道でも、縦柱のみの結界標章ではなく、"鳥居"門を建造することになったのだと思う。
熊野参詣道中辺路では、山上の聖地に至る最初の関門が発心門王子。ここから先は聖域。仏教施設としてなら、楼門建立が筋だろうが大鳥居である。(1109年参詣記)
1201年10月15日、後鳥羽院行幸随行員を務めた、40歳の藤原定家歌がここで詠んだ歌が残っている。
 入りがたき み法の門は けふ過ぎぬ いまより六つの 道にかえすな

修験道のメッカは、役小角創建とされる吉野山の金峰山寺だが、入山入口は総門(黒門)。大峯山上に至るまで修験道の4門があり、1番目には、伝弘法大師筆の「発心門」扁額が掲げられている。銅製鳥居で、伝承によれば東大寺大仏造営時の材料を使用。
この門は、修行者にとっては弥陀の浄土の入口とされていたようだ。

尚、平安時代中期[931-938年]の辞書源順:「和名類聚抄」[写本]二十巻本古活字版@国立国会図書館では、鶏栖を門として収載としているが、天照大御神がご祭神の神社の用語としてしっくりくるように、鳥居の意味を、長鳴鳥栖息としたのだろう。
鶏栖 考声切韻云 [毛報反] 今之門鶏栖也弁色立成云鶏栖[鳥居也楊氏説同]

日本は多神教たる仏教国になった訳であるが、浄土の入口はかつての精霊の世界との結界の標章をあてることにした訳で、確かに俗界から穢れ無き聖の世界の境界という意味としては当たっている。そのような門の名称は仏教用語には無い訳で、非仏教用語があったのだろうが、結局のところ建築用語がそのまま用いられたということだろう。
[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

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