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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.30] ■■■
[附 5] リベラルアーツ好み
日本では、リベラルアーツ教育は個人生活上の実利をあげ、成果を産んで来たのではあるまいか。

「実生活に役に立たなかったネ。」という会話ができることが、本人が思っている以上に役に立っているということ。
何が面白くて、何が嫌われるのか、この教育で直感が研ぎ澄まされていくからだ。日本でのビジネス成功のためには、ヒューマンリレーションシップ能力がイの一番にきそうだが、この教育で格段に上昇したのは間違いないのでは。
皮肉ではなく、本気でそう思う。

ただ、教育が目指してるのは、そういうことではなく、知識、分析、論理を磨くことのように思われる。
マ、そう考えるのは、いずれも学ぶことが面倒なものばかりだからだ。小生など、これをいかに要領よく、手抜きで最低レベルをクリアするかに注力した訳だが。
しかし、ビジネスマンならすぐにわかるが、分析や論理ならリベラルアーツでなくても学べる。残るのは知識だが、こちらは、もっぱら、有名人の主張とジャーナリスティックな解説を覚えることにならざるを得まい。

冒頭に述べたように、実利を考えるとこのような"学び"も悪くない。
しかし、リベラルアーツの最大の魅力はそんなところにある訳ではなかろう。物事の本質を見抜く能力を格段に高める点にこそ、その意義があると考えるべきだと思う。
教養のある人に舵取りを任せた方がよさそうと感じるのは、その点では当たっているとも言えそうだが、上述したような"学び"ではハズレを引くことになってしまいそう。

こんな話をするのは、「酉陽雑俎」著者や、「今昔物語集」編纂者は、リベラルアーツのこうした重要性を感じていたと思うから。
両者共に、"本の虫"だが、学問的な追求をしている訳ではない。あくまでも逍遥を旨としており、それは一種の遊びもあろう。遊びだからこそ、ある程度本気で深く追求しないとさっぱり面白くないのである。

物事の本質に迫ることができれば、社会的束縛を僅少にできるし、社会の流れが読めれば危険な流れに巻きこまれないで済む。そこらを大切にしていたともいえよう。
体質的には長期悲観論者だが、短期楽観論者ということになろうか。
その根底には、精神的に自由でいたいとの希求が流れているように思う。

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