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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.10] ■■■
[附 2] 三国観
「今昔物語集」編纂者は当代随一の知識人と見る理由の一つは"三国観"である。

考えてみればわかろう。
このスケールの違いは誰にでもわかる。
  天竺+震旦+本朝
  魏+呉+蜀
  高句麗+百済+新羅

なかでも特徴的なのは、朝鮮半島内のチマチマした小国を、中華帝国の三国に擬えるという、小中華思想そのもののコンセプト。これぞ半島の思考パターン。

これに対して、大乗仏教的世界観をベースにして眺めた3つのテリトリー分割観は秀逸。
と言っても、これを島国根性からくる、天竺や中華帝国対抗観と見る人がほとんどのようだが。
そういうこともあってか、「今昔物語集」は、朝鮮半島を無視して三国観を提起したと考えてしまうのではないか。

しかし、ソグドを中心とするオアシス的風土の西域、あるいはステップ全域を移動する匈奴圏を入れるならまだしも、朝鮮半島を無視するのは当たり前ではなかろうか。
ということで、ここらでメモとして残しておく必要性を感じた次第。

小生は、朝鮮半島は、小中華思想と、それに良くなじむ宗族第一主義宗教としての儒教(日本の非宗教の道徳儒教とは異なる。)により、一つにまとまっている地域と見ている。
従って、朝鮮半島無視と見る主張にはえらく違和感を覚える。

さて、「今昔物語集」の譚では、年号による時代表記はそれほど使われていない。
おそらく、書きたくかなかった訳ではなく、直観的にわかるのは"○○院nの御代"的表記だからだろう。こちらのタイプが多用されている。
考えればわかるが、玄宗期、武則天代、カニシカ王の頃という書き方は、インターナショナル標準と言ってよかろう。現代では、これを廃し、西暦に統一されている訳だが。
おわかりだと思うが、インターナショナルな立場で眺める場合、この年号表記こそが文化の独自性発揮の象徴。

本朝の年号は、所謂、"大化の改新"以後と言われており、(それ以前の鏡には中華帝国の年号が刻まれている。)それが、本朝、日本国の発足を表すと見てもよいかも。
しかし、朝鮮半島ではすでに新羅の時代に独自年号は廃されており、中華帝国内の一国の道を自ら選んだことになる。
しかし、そうならざるを得なかったとも言える。

言語に関して、公用語が日本同様に漢文だからだ。
文法が全く違うし句読点が無かったから、母国語でママ漢文を読むことはできない。(日本では、無理矢理、漢文書面の和文読みを行ったが、朝鮮では行わなかった。)ということは、朝鮮半島の上流階級の日常的公的言語は口語文語ともども100%非朝鮮語と見て間違いない。つまり、震旦の言葉を駆使できる、少数の支配者と、全く理解できない大多数の被支配者は完全に分離された訳だ。
従って、この時代の朝鮮半島の文化とは少数の漢語族のものと言わざるを得ない。
この状態では、大中華帝国の中央文化との差違を論じてもたいした意味はなかろう。(ハングルの登場は1446年である。)
百済や新羅の貴族層・知識人・高度な職工達が難民として日本列島に流入したから、そうした実情は早くから知られていた筈。(血族第一主義国家では、敵対者の家系根絶は子々孫々まで義務となりかねず、高級難民が非儒教国の日本列島目指してに流入したのは当然のこと。)

そもそも、広開土王碑には、新羅は高句麗の属民であり、倭が391年に臣民としたとされており、半島に文化的に注目すべきものがあるとは思えまい。「宋書」にも、451年に倭国済王を都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍に任命している位だし。
その後、新羅王朝は、朝鮮半島中部以南を統一@676年し朝鮮半島の国家祖型を構築したが、その仏教伝来は528年である。もちろん、鎮護仏教であり、仏教勢力が対中華帝国の統一軍事組織国家構築に大きく貢献したのは間違いなかろう。
時代的には「今昔物語集」の本朝仏法史の幕開けとして記載されている聖徳太子[574-622年]の頃である。

このように考えれば、インターナショナルに見て、三国というコンセプトは当時の知識人にとっては当たり前とも言える。
震旦とは口語はバラバラだが文語が統一されている漢語圏であり、天竺は社会的には文語としてしか通用しない梵語(サンスクリット)圏。そして本朝は、文語口語の両刀使いの倭語である。

実は、言語から、見事なまでに三国観が読み取れるからでもある。
天竺圏とは、経典(ベーダ教、仏教)と神話/説話が残って行く世界。
中華帝国は儒教圏なので、、これらは、消滅させるべき対象でしかない。西域との交易の必要性という点で、仏教が役に立つ以上ではなかったということになろう。仏典を残す必然性は無い。
「酉陽雑俎」の著者がいみじくも気付いたように、ここで残る書物とは、政権公認の史書と小説だけ。
従って、小中華的な周辺地域は、自ら何も残らぬ伽藍堂の道を歩むことになりかねないのである。
一方、本朝は風土的に全く異なる。雑炊的に、できる限りのものが遺される。
「今昔物語集」編纂者はそのことに気付いたようである。
音楽一つとっても、様々なものが併存する社会なのだ。王権の力で一変してしまう社会ではなく、それこそ、唐の大都会長安のインターナショナルな多様性文化に近いとも言えるのである。

だからこそ、【本朝世俗部】の編纂に矢鱈と力が入ったと見ることもできょう。

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