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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.29] ■■■
[29] 袴垂
袴垂は懸賞金が掛けられるほどの大盗賊だったらしい。屋敷に住む者なら、誰でもが知る名前だったらしく、義賊でもないのに、社会的にはヒーロー扱いされていたようだ。
唐長安も文化的に成熟してくると、無頼漢に人気が集まったりする訳で、それが都会の運命でもあろう。

世にも呆れた風潮がまかり通ったのである。枕草子じゃあるまいに、"盗賊は○○"という話でもちきりというのはどうかしている。
【本朝世俗部】巻二十九本朝 付悪行(盗賊譚 動物譚)
[巻二十九#_2]多衰丸調伏丸二人盗人語
近頃世にはびこるもの、二人の盗人。
 蔵穿つ多衰丸、度々捕らえられ、獄に入れられけり。
 調伏丸神出鬼没。正体不明。
極て有難き事也。


それにしても、平然と殺戮を行う盗賊の首領が有名人という社会ができあがってしまったのは恐ろしい限り。いつ何時、盗賊の襲撃を受けるかわかったものではない訳で、こうした現実を直視し、変革を目指す僧侶が現れておかしくないご時世ということ。
唐の「酉陽雑俎」の著者も盗賊談を忘れていないが、そんな社会状況に仏教零落を感じ取っていたように見える。実際、仏寺はズタズタにされていた訳だから、当然ではあるものの。
一方、「今昔物語集」では、武士のなかに、曙光を感じ取っているようにも思える。

【本朝世俗部】巻二十九本朝 付悪行(盗賊譚 動物譚)
[巻二十九#19]袴垂於関山虚死殺人語
袴垂と言われる盗賊がいた。
投獄されていたが大赦ででてきた。しかし、行くあてなどなし。
そこで、逢坂の関山で、道で裸になって死んだふり。
 往来の人はどうしたのだろうと訝って眺めていた。
従者を連れた立派な騎乗の武士も通りがかったが、
 さっさとその場を避けて行ってしまった。
そのうち、一人でやってきた騎乗の武士が近寄っていった。
 哀れな死人と思って弓でつつく。
ところが、袴垂、そこをすかさず襲って、武士の刀で殺害。
 馬や持ち物を手に入れ、その武士の姿となり、
 近江方向へと逃亡。
手筈通り手下20〜30人と落ちあったのである、
 そして、道行く者の持ち物を片っ端から奪っていった。
 まさに無敵の強盗集団化。


難を避けた武士は、村岡五郎/平貞道とされている。東国の平氏である。
理を外さず、流石と評価。
ご教訓はその辺り。・・・

その平貞道だが、武士として高い評価を受けているのである。
【本朝世俗部巻二十五】本朝 付世俗(合戦・武勇譚)
[巻二十五#10]依頼信言平貞道切人頭語
源頼光朝臣の郎等 平の貞道は宴席にでていた。
 そこで、主君の実弟 源頼信から呼ばれ
 無礼者を討ち取ってくれと頼まれた。
知らぬ人だし、
 皆が聞いている席で頭を取ると宣うなど
 嗚呼
[愚か]とも思い、適当に対処しておいた。
その後、3〜4ヶ月経ち、用事で東国へ。
たまたま、そこで頼光の言っていた男に出くわし、
 討ち取れとの言葉を思い出した。
 経緯を話し、そんな気は無いと語った。
ところが、男は、
 あなたの力では討ち取れまい、と誇る。
武勇を誇る貞道は怒って討ち合いに。
 そして、首を取ったのである。
褒美として駿馬を頂戴し、
 源頼信がこの男を討てと言った意味を理解したのである。

ところで、袴垂だが、29巻悪行(盗賊譚)が初出ではない。
【本朝世俗部】巻二十九本朝 付悪行(盗賊譚 動物譚)
[巻二十五#_7]藤原保昌朝臣値盗人袴垂語
袴垂は盗賊代将軍。
肝っ玉が大きく、強腕にして俊足、手先が器用で、頭も良い。
 世に並ぶものなしという人物。
 隙を窺い、すかさず金品を奪うことが生業。
秋は十月のこと。
袴垂は衣を奪おうと物色しながら歩いていた。
 夜半なので、皆寝静まり、月は朦朧。
 すると、指貫らしき袴と上質の狩衣を着て
 一人で笛を吹きながら大路を歩く男を見つけた。
これは有り難いと大喜び。
早速、走りより、飛びかかって打ち臥せようと思ったが
 怪しく恐ろし気な雰囲気が漂っており、
 とどまったのである。
そして、後をつけ、走り寄ったりもしたが
 男は驚くこともなく、平然と笛を吹き続け歩くだけ
10町も歩いてしまったので、
 ついに刀を抜いて走りよった。
 男は笛を吹くのを止めて「何者ゾ」と。
その言葉だけで、肝を冷やしてしまい、
 「引剥[追剥]に候。
  名は袴垂と申す。」と。
男は、名前を耳にしたことがあるからついて来いと。
袴垂はふらふらとその笛を吹く男の後に従って行った。
男は、大きな家に入っていき、中から袴垂を召し、
 綿の厚い衣を与え、
 「衣が必要になったら参上せよ。
  知りもしない相手に取り懸て、誤まりなどすな。」と。
その後、この家の主が摂津前司藤原保昌とわかった。
捕らえられた袴垂の言によると
 「奇異で、恐ろしい気配の人だった。」と。
藤原保昌の家系は武士ではない。親は「伏字」。
この保昌朝臣は武士の家の生まれではなく、□という人の子だが、肝っ玉が大きく、手先が器用で、思慮深いので武士同等と見られていた。公的にも、武士として仕えさせたので、人々は恐れていた。
子孫がいなかったのは、武士的で家系的に異端だったからとか。

この藤原保昌だが、藤原道長・頼通の有力家司に当たる、右京大夫・藤原致忠の子。和泉式部の夫でもあるが、勇士武略の長と呼ばれたという。
一方、その弟保輔は貴族社会のなかで、傷害や強盗を働いた無頼漢らしく、袴垂と同一人物との説も流されたらしい。
988年、捕縛直前に自刃と伝わる。

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