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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.7] ■■■
[130] 藤原広嗣の乱
藤原広嗣の扱いは、「今昔物語集」の意義に係わるので非常に重要である。

小生の書き物もすでに130回にも達したので、そろそろ潮時かと思い、取り上げることにした。

ちらほらでもこのサイトをお読みになった方だと、意図的に「今昔物語集」に収載されていないが如くに扱っていると感じられたことだろう。その通りである。
学者を目指す人は別だが、1000以上もあるお話をバラバラにして、分析的に眺めるな、ということで書いているので、どうしてもそうなるのである。

例えば、玄ム僧正譚はすでに取り上げたが[→留学僧]、この譚の意味は所属巻と題名ではっきりしている。
「今昔物語集」編纂者が伝えたいことは、あくまでも「道照⇒道慈⇒玄ム」という流れであって、それ以上ではない。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#_6]玄ム僧正亙唐伝法相語

しかし、一般にはそんな流れなど、どうでもよい話で、必ず藤原広嗣の乱[740年]に焦点を当てたくなる。
当たり前だが、世間一般にそんな話が広まっているからだ。しかし、「今昔物語集」編纂者から見ればそれこそがどうでもよいこと。見るべきは、大きな流れだから。
間違っていけないのは、それなら藤原広嗣の乱を記載しないという方向には進まない点。意味が薄いからこそ、懇切丁寧に書くのである。文章量は多いが、歴史観を形成する上では格段の意味無しとみなしているのだ。よく考えた編纂なのである。
もともと、藤原広嗣の乱に興味がある人はこの部分だけ注目する仕掛け。しかし、その位置付けは、単なる権力闘争以上ではない。見るべきことは、法相宗が定着した点としっかりと書いてある。
それは、本朝が仏教国となった切欠でもあると見ている可能性が高いが、余計なことは記載していない。表立って書くことははばかられる点が多いと、いわんばかり。
  [巻十一#19]光明皇后建法華寺為尼寺語 (欠文)

マ、「今昔物語集」を読んでも、そうは感じない人の方が多いかも知れぬが。

と言うことで、玄ム僧正譚を見ておこう。
〇聖武天皇期の話
 玄ムは、大和出身。
 幼い頃から仏法を学び、賢かった。
 715年入唐。師は知周法相。
 20年滞在し三位紫袈裟着用の高僧に。
 遣唐使 多治比の真人広成人と共に帰国。
 経論5,000巻、仏像等を持ち帰った。
 僧正となり、光明皇后が特に尊んで帰依。
 寵愛されたので、良からぬ噂が流された。


仏教渡来〜流布史としては、これで十分であり、あとはオマケだが、これが結構、長いのである。
〇丁度、その頃、
 藤原広継という人がいた。
 不比等の孫、式部卿の宇合の子。
 家柄も良く、品格もあり、世間の評判も高かった。
 吉備真備大臣を師と仰いでいた。
 賢才と言うことで、右近の少将に。
 ただ、午前中は都の右近少将だったが、
 午後は九州太宰府で太宰少弐を務めていた。
 家は肥前松浦である。
 世間では、不思議なことと言われていた。
 広継、玄ムの話を耳にし、
 太宰府から
 「后の玄ム寵愛が悪い噂になっており
  お止めになるべき。」と奏上。
 天皇は、
 「広継が口を出すことではない。
  国の禍になりかねない。」と判断。
 勇猛で智謀あるに御手代東人を召し
 即刻、広継を討伐せよとお命じになったのである。


どう読んだところで、藤原広継の乱といったイメージからはほど遠いし、吉備真備大臣が討ちとったとは思えまい。正史に真っ向から対抗する記述と見るのが自然。
この討伐人だが、御手代(=天皇の御名代)東人は僧として、大和 吉野山(修験道)での霊験譚に登場してくる。[→観音ノ寺参詣]

〇広継はこれを知り、
 玄ムの謀略とみなし、
 朝廷軍を迎え討ったが弱体。
 勅威には勝てそうにないので
 空を翔る竜馬に乗り鎮西に下り。
 さらに高麗に行こうとしたが飛翔できず
 命運尽きたと海にて入水。
 東人は、浜に上がった遺骸の首を持ち帰ったのである。


もともと、大宰府赴任にも従っていなかったと見ているようだ。父は、藤原4兄弟の一人だが、赴任せずにすましているようだから、同じことをしていたが、藤原一族にそれだけの力がなくなっていたのだろう。

〇事実上、誅された広継は悪霊と成った。
 公を恨み、玄ムには怨念となり出現。
 赤衣を着て、冠を被って、玄ムを掴み取り、空に連れ去り、
 身体をばらばらに引き裂き、ちぎって落したのである。
 玄ムの弟子達は、これを拾い集めて埋葬。


すぐに、藤原一族のリベンジがあったようだ。黙っていれば、一族零落間違い無しだから当然のこと。

〇その後も、悪霊は鎮まらなかった。
 天皇は、大いに怖れ、
 広継の師 吉備真備大臣に怨霊鎮めを命じた。
 そこで、宣旨により、広継の墓で怨霊鎮めを挙行。
 吉備真備
[695-775年]は、陰陽道の達人。
 身固の呪術で自分を護り、霊を鎮めたのである。
 その後、怨霊出現はなくなった。
 そして、怨霊は神に成り鏡明神として祀られることに。
  
(松浦総社鏡神社二ノ宮@745年創建)
 玄ム
[n.a.-746年]の墓は奈良に。
  
(頭塔@高畑町[→"奈良公園から春日大社を経て高畑へ"]
   左遷された筑紫観世音寺で没したとの記録を否定する記述である。)

興福寺には、玄ムの弟子がいるから、この話はそこらがソースであろう。

吉備真備は、陰陽道の呪術で人気があったようだ。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#_4]女依法花力転蛇身生天語
粗筋は単純。・・・一夜の契りを交わし、金千両を頂戴した女は、おカネに執着し墓に埋葬させたので、毒蛇に転生。
偶然にやって来た人に依頼し、法華経追善供養をしてもらい畜生道からの脱出を果たし兜率天に生まれ変わる。

ただ、その人とは吉備の大臣。そのおカネの半分で供養してもらうのである。
 724-749年頃、東山の石淵寺(=岩渕寺)@高円山東南麓でのこと。
 この寺には参詣人が来なかった。
 参詣すると戻ってこれずに死ぬと言われていたからだ。
 これは怪しいということで、
 吉備の大臣が私が参詣して試してみようと。
 夜、ただ独りでお堂に入り、仏の御前に坐した。
 陰陽の方術の達人なので恐れていなかったのである。
 身固の術で鎮めていると、
 夜半になると、物怖しき雰囲気に包まれ、
 堂の後から気色悪い風が吹いて来て、
 物の怪がやって来たようなので、
 鬼が人をおうとしていると見て、
 身固の術の呪詛を行っていたところ、
 後の方から一人の女が微妙な様子で歩み寄って来たのである。


登場するさびれた場所の名前は記載されていないが、高円山。
奈良の都の東山といえば、3つの山だが、その南側。
 若草山(342m)[国土地理院三角点"三笠山"]
 春日山本峯/三笠山(297m)
 春日山西峯/御蓋山(283m)
 高円山(432m)
そこは鎮護仏教を国教化させた聖武天皇の離宮"尾上の宮"があった地。
   興に依けて、各高圓の離宮処を思ひてよめる歌五首[「万葉集」巻二十#4506]
 高圓の 野の上の宮は 荒れにけり
  立たしし君の 御代遠そけば

   右の一首は、右中弁大伴宿禰家持

【注】吉備真備は陰陽の達人とされているが、要するに中華帝国で起用されていた呪詛の知識が豊富だったということでは。「酉陽雑俎」から推定するに、道教に取り込まれた流れは、禹歩・刀剣(+鏡)・役鬼に特徴がある。山岳に入って、不老長寿の薬を手に入れる手法でもあったのだろう。それが、都会に適応してくると、呪詛・護符(呪符)・厭物(呪物)・式神(識神)となる。洗練された法術としては、隠身(透明人間化)・射覆(覆物の中身を当てる.)・身固(護持)が人気を集めたということだろう。

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