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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.7] ■■■
[222] 源信物語 [2:涅槃経写経]
経典の書写と読誦は善行として必ずあげられる。なかでも、後者はほぼ定番。これでもかという程に驚異的な読誦量を誇る話も数多く収載されている。
思うに、編纂者は、読誦数で帰依の深さを示す姿勢に対しては、批判的であろう。それが必ずしも真摯な姿勢を示しているとは限らないということで。

そんなこともあって、書写は相対的に見れば読誦ほどの取り上げ方になっていないようにも見える。
しかし、源信の話になると、先ずは書写ということになる。比叡山横川の祖ともいえる円仁の伝統を大事にしているせいでもあろう。
横川の施設の流れはよくわからないが、どうも納経の地でもあったようだ。
 《円仁》
  829年 横川に隠棲。首楞厳院建立。
  833年 横川根本杉祠で法華経書写。小塔(如法堂)に納経。
  848年 円仁横川中堂(根本観音堂)建立。
 《-》
  883年 常行三昧堂を東塔に移築。
 《良源》
  954年 横川首楞厳院建立。
  966年 18世天台座主。
  968年 63代冷泉天皇の御願により横川常行堂建立。
  975年 横川中堂建立。
 《源信》
  988年 根本如意堂を建立。円仁写経を納経。
 《覚超》
  1031年 円仁書写経用如法堂銅筒作成。
    …国宝「金銀鍍宝相華文経箱」@比叡山延暦寺所蔵

天台と言えば1に法華経だから、写経の対象もそうなると思っていたら、源信譚では涅槃経/大般涅槃経になっている。つまり、そこには深い意味があるゾと示唆している訳だ。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#39]源信内供於横川供養涅槃経語

釈尊入滅を描く経典である涅槃経の場合、注意が必要である。大乗版は初期のバージョンとは思想が違っていて、「一切衆生悉有仏性」を解いているからである。
ここでの原本はおそらく、曇無讖の翻訳書。[「大般涅槃経」40巻 421年]

つまり、草木成仏が、琴線に触れるところ。
源信の師、良源はこの思想を極限まで高めたのである。有仏性である以上、目が出て、歯が出て、花が咲くということで、有情のヒトや動物だけでなく草木も発芽〜定住成長〜開花〜結実という過程で修行しており、それにより成仏できると考えた訳だ。 (「草木発心修行成仏記」)

比叡総員での「大般涅槃経」写経と横川納経はそれを考えると、一大転換点でもあったと言えよう。
源信は、おそらく、ジャータカ部分的翻訳書にも目を通していただろうから、釈尊の教えからすれば、これは原点的な思想と見なした筈である。

話の筋としてはこんなところ。・・・
 横川の源信僧都は、道心深き多くの聖人達と心を一緒にし
 涅槃経書写を始めることに。
 各人一巻づつ分担。
 西塔の実因僧都も、結縁ということで参集。

ここはなにげなく読んでしまうが、実は極めて重要なところ。
あくまでも信仰は個々人であり、善行は個人が行うのである。しかし、集団で行うことにこそ意義がある。そこらに気付いてもらわないと意味がなくなるので、後半にそれを喚起する話をつけている。
マ、説明がないので、わかりづらい点があるのは確か。
僧の集団であるから、そこには必ず師弟関係がある。道教のような官僚制神々の力を頼みにするための術を身に着けるための師弟関係とは異なるものの、仏教においては師は必須条件と言えよう。
しかしながら、この写経集団での師は源信という訳ではない。もちろん、実因僧都が師ということもない。互いに師であり、弟子でもあるということ。これこそが、インターナショナリズムの根底にある考え方。天竺〜西域〜震旦〜本朝の誰であろうが、"結縁"、つまり師弟関係が成り立つということ。どちらが師であってもかまわないのである。
 さらにこの流れは東塔、無動寺へと広がって行った。
 皆、渾身の思いで書写したので
 どれもが光輝くほどに美しいものが完成。
 そして、写経供養の日。
 各自写経した経を横川に持ち寄り
 経机に並べることに。
 開始の頃合いに、
 西塔の実因僧都が70〜80人の僧を連れ
 沢山の経典と共にやって来た。
 当然ながら、参集者は、
 実因僧都が講師役と思っていたが、
 皆の前に出ず、西塔一塊になって坐すだけ。
 時間だけが過ぎて行き、
 実因僧都が源信内供に
 「早く始めて下さいまし。」
 と声をかけた。
 すると、源信内供は
 「ずいぶん時間が経ってしまいました。
  どうか高座にお上りになって下さいまし。」
 との返答。
 両者、譲り合い、どうにもならないのである。
 流石に、日が暮れてきたので、
 このままだと、実因僧都も返ってしまうので
 "それでは畏れ多いことですが お勤めさせて頂きます。"
 ということで、
 源信内供が講師を引き受け、供養が始まったのである。
 極く日常の僧衣姿だった。
 下着は紙だし、裳や袈裟も硬そうな布であり
 実に尊く、釈尊弟子の大迦葉を彷彿させた。
 源信内供は礼盤に上り、周囲を見回し、仏前に向かい、
 美しい声を震わせ一言。
 「涅槃経は難しいものです。
  にもかかわらず、今日、このように結縁できましたのは、
  前世からの深い契りがあるからでしょう。
  皆様ご一緒で、このことを深く信じ、
  御一同で礼拝したいと思います。」
 と言って立ちあがり拝礼。
 袖で顔を被りながら大泣き。
 一同も一斉に大泣き。
 沙羅双樹の林での釈尊入滅を思わす情景となり、
 皆、尊く思い、感無量。
 その上で一通りの供養の儀式が行われた。
 終了後、西塔に戻った実因僧都は語った。
 「私が講師役となっていても
  仏に申し上げる供養儀式はできたと思う。
  しかし、参集者一同が一斉に大泣きしたのである。
  優れた徳の高い聖人でなければ、こんなことは無理だ。
  この、今日の供養で結縁を結べたことで
  その功徳のお蔭で三悪道に堕ちることはない。
  本当に、貴く、有り難いこと。」
 そして感極まり再び大泣き。


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