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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.14] ■■■
[289] 僧正遍昭
僧正遍照[816-890年]は、俗の時代は桓武天皇の皇孫として深草少将と呼ばれ大いに持て囃されたお方。
  五節の舞姫を見て詠める
 天津風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ
  乙女の姿 暫し止めむ
  「「小倉百人一首」#12 「古今集」巻十七雑上#872]

深草天皇の寵臣だったが故に、継承した文徳天皇が春宮だった頃は疎まれており、どのような対処がなされるか大いに恐れ、道心もあって出家してしまうのである。
その後、修行一途で高僧に。
ここらを、「今昔物語集」はとりあげている。
そして、陽成天皇誕生の際には寺の造営を発願し、藤原高子が868年元慶寺/花山寺を創建し、座主に。さらに、869年常康親王より譲り受けた雲林院を別院に。885年僧正になり、光孝天皇から七十の賀を受けた。
  雲林院の皇子の、舎利会に山に登りて帰りけるに、
  桜の花の下にて詠める
 山風に 桜吹き散き 乱れなむ
  花のまぎれに 立ち止まるべく
  [「古今集」巻八離別歌#394] 

  【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#_1]頭少将良峯宗貞出家語
 深草の天皇代[仁明天皇 在位:833-850年]
 蔵人頭を勤める右近の少将 良峯宗貞は大納言康世の子。
 美麗、かつ、心根も正直。才も人に勝っており
 天皇、殊に睦まじくし、哀れに思し召していた。
 そんなことで、傍の人からは憎まれ、宜しからず思われていた。
 時の春宮は、天皇の御子
[⇒文徳天皇]
 憎む人々は、事ある毎に春宮に、頭の少将を悪く言い
 それが積み重なっていた。
 春宮の御気色を心得てはいたものの、
 天皇の思し召しがあるので、ほとんど顧みず、
 日夜朝暮、宮使いに精を出していたが
 天皇が罹病。ずっと悩み患っておられたので
 頭の少将は、肝砕け心迷うようになり、
 嘆き悲しんでいたが、
 ついに崩御
@850年され、暗夜に向かう心地に。
 こうなると、身の置きどころも無いように思え
 「この世はどうせたいして居る訳でもない。
  法師に成って、仏道修行することにしよう。」
 と思う心がつのっていった。
 その頭の少将だが、宮原の娘を妻としており、
 極めて愛らしく思い通い続けたので
 男子一人、女子一人の子を得た。
 「妻は独り身であり、
  我以外に頼る人はいない。」
 と考えていたので
 極めて心苦しく、哀れにも思ったが、
 出家の決心は揺らがなかった。
 天皇の御葬送の夜の行事が済むと
 人に行くと告げることもなくして失踪。
 妻子・眷属は、泣き迷って、
 聞き及ぶ所の山々寺々を尋ねて探したが、
 露ほども、その居所知れず。
 頭の少将は御葬送の暁に、
 比叡山横川にただ独りで登って
 慈覚大師の横河北谷の大きな椙(=杉)の空洞に居た。
 そして、妙法蓮華経を書経する場所に参詣し
 法師になったのである。
 その時、独りで詠むに
     
(初めて頭おろし侍りける時、物に書きつけ侍りける)
    垂乳根は かかれとてしも 射干玉の
     我が黒髪を 撫でずやありけむ 
[「後撰」#1240]
 その後、慈覚大師の弟子となり法を受習。
 そして、今少し深く入り、懇ろに仏道に精進。
 今上天皇が即位されことを聞き、
 諒闇の年が明ければ、
 「世の中の人々は、皆、衣の色を替えた。」と推し量り
 物の哀れを感じ、独りで詠むに
    皆人は 花の衣に なりぬらむ
     苔の袂は 乾きだにせず
 この様にして修行し、年月が経っていった。
 そんな時、10月の頃、笠置に参詣。
 ただ独りで礼堂の片角で蓑を打敷って修行していたところ
 参詣人が訪れた。
 主と思われる女に、女房が1人と、侍と思しき男で
 従者2〜3名のようだった。
 一行は、2間ほど離れた所に居たが
 自分は暗い所に居たので人が居ることに気付かず
 忍んで仏に申し上げているのが聞こえて来た。
 よく聞いていると、その女人が言うには
 「失踪してしまった人の有様をお知らせ下さい。」
 泣いている気配で哀れに申しており
 耳を立てて聞いていると、
 それは我が妻の様と、わかってきた。
 「"我はここに居る。"と言うか。」とも思ったが、
 知らせてしまっても、どうにもなるものでもない。
 仏は、かかる中でも、別れるべきと、返す返す教え給うたのだから、
 思いを念じているうちに、夜から暁方になってしまった。
 参詣の一行は、「出よう。」ということで
 礼堂から歩み出たところを見ると、
 男は我が乳母子であり、帯刀しており、
 7〜8才の我が男子を背負っていた。
 女は、4〜5才の我が女子を抱いていた。
 礼堂から外は霧が降っており、歩み出すと見えなくなった。
 そこで、強い意志のお蔭で、知られなかったと思ったのである。
 その間に、恐れ奉じていた春宮は即位し文徳天皇に。
 御悩みがあり崩御され、その後、御子の清和天皇が即位。
 政治に力を振るわれていたが、御悩みがあり
 諸々の止事無き、霊験有る僧共を召され、様々なご祈祷をさせた。
 しかしながら、露ほども霊験が現れなかった。
 そこで、奏上があった。
 「比叡山横川に慈覚大師の弟子の頭の中将宗貞法師がおられ、
  懃ろに仏道を修行され、霊験あらたか。
  彼を召して祈祷させ給うべし。」と。
 と言うことで、度々宣旨があり、参内し、御前で御加持。
 たちまち霊験が現れ、御病気も失せたので、法眼の位に。
 その後、たゆまなき修行を続け
 陽成院の天皇代になり、霊験を現したので僧正の位に。
 そして、花山に住し、遍照という名前に。
 そういうことで、花山で封戸を給わり、
 輦車の宣旨を蒙り、890年正月19日に逝去。享年72。
 世では花山僧正と呼ばれている。


50代桓武天皇
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51代平城天皇
52代嵯峨天皇
│○53代淳和天皇
┼┼┼┼○良峯安世[785-830年]…大納言
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┼┼┼┼┼┼┼8男良峯宗貞…従五位上・左近衛少将
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┼┼┼54代仁明天皇
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┼┼┼55代文徳天皇
┼┼┼58代光孝天皇
┼┼┼┼┼┼常康親王/雲林院宮
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┼┼┼59代宇多天皇
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┼┼┼60代醍醐天皇
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┼┼┼56代清和天皇
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┼┼┼57代陽成天皇

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