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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.3] ■■■
[369] 法華往生教
巻十五 本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)の構成を先に眺めてしまったが[→僧俗男女往生譚の巻、"地方・無名僧"譚にほとんどふれてこなかったので、ここで私見を述べておこう。
   《巻十五の構成》
  #1〜35 比丘
   #_1〜16 南都北嶺高僧
   #17〜25 地方・無名僧
     
[#22〜24 迎講]
   #26〜30 沙弥 ◎悪人往生◎
   #31〜35 在俗生活後出家の入道
  #36〜41 比丘尼
  #42〜47 優婆塞
  #48〜53 優婆夷
  #54 童


"南無阿弥陀仏"との題目を称える宗派としては[→本朝往生譚]、後代の、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗があるが、宗派経典は当然ながら、浄土三部経(「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」)<になろう。しかし、融通念仏宗だけは、これらは"傍依"とされており、"正依"は華厳経と法華経のようだ。
法華経一途譚だらけで「今昔物語集」だから、上記の往生譚に呼応する流れは、この宗派の流れを汲んでいるのかも、という気になってくる。(宗祖誕生は源信没後65年)

ただ、現代迄続いている宗派とはいえ、宗祖の思想を凝縮した著作が残存していないようだから、その辺りをを読み取るのは困難。従って、はたして繋がっていると見てよいのかはなんとも。個人の信仰では難しい極楽往生も、集団として結縁すれば、可能になるという教義のようだが、その発生経緯が自明ではないからだ。
しかも、"南無阿弥陀仏"を十界(仏法法界, 菩薩法界, 地獄法界, …)に対して称するから、題目も全く同じでもない。
「今昔物語集」編纂者は個々人の精神的自由を重視していそうであり、集団信仰とはかなり次元が異なるようにも見えるし。
(念仏を集団でという点では、後世では、時宗開祖 一遍の躍念仏があるが、その源流はおそらく空也。「今昔物語集」では空也だけは恣意的に取り上げていない。個々人の精神に基づく営為を消しかねない大衆運動には乗れないとの意識がありそう。)

と言っても、宗祖は、出自が横川ではないものの、明らかに叡山の法華と念仏の浄土教であり、念仏聖だったことも間違いない。(源信の主著である「往生要集」「観心略要集」等とどう繋がるのか、素人に解る説明を見かけない。)
     《良忍/聖応大師系譜》
 1073年 出生@尾張富田荘…領主の子[俗性:秦]
       12才出家@比叡山…光乗房 良仁
       不断念仏+念仏合唱@東塔 常行三昧堂
        天台教学修習[師:良賀]
       梵網戒(円頓戒)修習@園城寺[師:禅仁, 観勢]
       密教秘密灌頂@仁和寺[師:永意]
       1000日苦行@無動寺明王堂
 1094年 大原隠遁…良忍に改名
 1109年 来迎院・浄蓮華院建立
       毎日法華経1部読誦+念仏6万遍+三時行法
       大原魚山流声明
 1117年 自他融通念仏創唱
       諸国歴遊結縁勧進教化
 1124年 融通念仏会@宮中
       根本道場 修楽寺建立[⇒大念仏寺]@摂津住吉平野
 1132年 60才示寂@大原来迎院
どう見ても、宗派の組織形態を整えて始まったのではなく、結縁名簿記入の念仏会運動が、道場設立で宗派の形になっていったということだろう。

と言うことで、法華往生教的な僧が描かれている、巻十五#17〜21の地方・無名僧譚を見ておきたい。(#22〜24<迎講>と#25<樹上の声>は除外。)

どの譚も、登場僧のトレースは難しいが、全国規模で法華往生教のネットワークができあがっていて、各地にその拠点の寺があったということだろう。「日本国現報善悪霊異記」とは、そんな状況下で成ったということだろうか。

《法広寺》は何処にあったのか、皆目見当もつかない。法華経の話は無く、阿弥陀仏念仏のみ。
  [巻十五#17]法広寺僧平珍往生語
 平珍は法広寺に住していた。
 幼い時から山中で修行を積み重ね、
 霊場や行場にもすべて参詣。
 老境に入り法広寺を建立し、終の棲家とていた。
 寺中には、別途、極楽浄土を模した小堂を設け、
 阿弥陀仏を安置し、心を込めて礼拝。
 「この功徳を以て
  臨終の際は、威儀を乱さずして、極楽往生したい。」と祈願。
 そして、臨終を迎えることになり、
 弟子達に念仏三昧を命じ、
 一人の弟子を呼び言った。
 「空中に音楽が近付いて来た。
  弥陀如来ご来迎の前兆だ。」と。
 平珍は清浄な衣を身に付けると、
 西に向かって端坐し、合掌し、念仏を称えながら
 息を引き取った。
 弟子達は貴び泣き、さらに念仏を称えた。


次は、京 鹿ヶ谷〜大津 園城寺の山中に位置した《如意寺》。地方ではないが、主要な寺からは離れた場所にある、山岳寺院である。これも阿弥陀仏一筋。
  [巻十五#18]如意寺僧増祐往生語
 沙門増祐は播磨賀古蜂目の人。
 幼時に入京し、如意寺に住むようになり、念仏読経。
 976年正月に身に小瘡ができてしまい、飲食も上手くできす。
 夢で、寺の三車を見た人がいた。
  西の井戸の辺りにあり、
  増祐上人を迎えるための車であると説明を受けた。
 再度、そんな夢を見たところ、
  場所が、房舎の前に変っていた。
 その月の晦日。
 増祐は弟子に告げた。
 「死期が目前となった。
  葬具を用意するように。」と。
 その夜、弟子達に助けられて。埋葬の場所へ。
 如意寺から5〜6町ほどの場所で、
 大きな穴を掘ってあり、増祐上人を入れて念仏。
 そして、息絶えた時
 寺の南で、20人ほどが、高い声で阿弥陀の号を唱えていた。
 尋ねていったが誰もいなかった。


《小松寺》@遠田田尻小松[=栗原瀬峰中の玄海。こちらは、真言の陀羅尼。
  [巻十五#19]陸奥国小松寺僧玄海往生語
 玄海は陸奥新田の小松寺の僧。
 俗人だったが、妻子と世俗を捨てて寺に住し、
 仏道に専心。
 昼は法華経1部、夜は大仏頂真言を7度誦すのが日課。
 あるとき夢を見た。
  突然にして、左右脇に翼が生じ、
  西に向かって飛んで行ったのである。
  千万の国々を飛び過ぎ、微妙な世界に到着。
  そこはすべてが七宝。
  下り立ち、我が身をよく見ると、
  大仏頂真言が左の翼、法華経第八巻が右の翼だった。
  宝樹、楼閣、宮殿、等をを眺めて廻り歩いていると、
  聖人が現れ、汝は何処へ来たか知っておるかと尋ねられ、
  知らないと答えると、
  「ここは極楽世界の一隅。
   汝はすぐに元の国に帰るように。
   三日経ったら、迎えるから。」と。
  そこで、玄海はすぐに飛んで返った。
 その時、夢から覚めたのである。
 弟子達は師がお亡くなりになったと嘆き悲しんでいたが、
 生き返ったのである。
 玄海が夢のことを話して聞かせたので、
 皆、限りなく貴んだ。
 玄海は、法華経・大仏頂真言読誦にさらに専心。
 丁度、3年後に逝去。


続いては、道教的死去で異質な話が紛れ込んでいる。《如法寺》@信濃高井中津(中野)の薬蓮。
  [巻十五#20]信濃国如法寺僧薬蓮往生語📖尸解 📖和泉松尾寺僧の往生

さらに、《大日寺》@山科勧修寺北大日の広道。法華経読誦と阿弥陀念仏である。
  [巻十五#21]大日寺僧広道往生語
 広道は大日寺の僧。
 極楽往生祈願だけの生活。
 そこに、貧しい女が来て一緒に暮らすようになり、
 子ができた。
 兄は禅静、弟は延睿。
 母が亡くなり、兄弟は母の極楽往生祈願で
 昼は法華経読誦、夜は阿弥陀念仏。
 広道の夢に、
 女が牛・羊・鹿の車で往生するシーンが。
 一方、兄弟の夢には、
 純な思いにより、母は極楽往生されたとの声。
 他の人の夢でも。
 そこでは広道も。
 それから数年を経ずして広道入滅。

そして、#22〜24の迎講譚に繋がる。📖迎講創始者

#25は一風変わっており、摂津の修行僧が登場するが、その僧と無関係な<樹上の人>の往生譚であり、同一グループには含め難い。
  [巻十五#25]摂津国樹上人往生語
 摂津島箕面の滝の下に大きな松の樹があり、
 その下で修行する僧がいた。
 8月15日の閑かな夜のこと。
 月は明るく晴天。
 突然、天上から音楽が流れ、櫓の音も。
 松の樹の上に人がいた。
  「私をお迎えに?」と。
 空中から答え。
 「今夜は、別の者のために、別の場所に行く。
  汝のお迎えは、来年の今夜。」と。
 そして遠ざかっていった。
 樹下の僧は、樹上に人がいたことに初めて気付いた。
 そこで、樹上の人に質問。
 「あの音は何でございましょうや?」と。
 樹上の人の答は、
 「阿弥陀仏四十八大願の筏の音。」と。
 樹下の僧は、翌年の8月15日の夜を待っていたところ
 天上の声の通りだった。
 微妙な音楽が聞こえ、迎えが来て、去っていった。

意義がよくわからぬ話だが、筏(大願船)の出典は唐代初期浄土教の論攷にあるらしい。
又阿彌陀佛。與觀世音大勢至。乘大願船。浮生死海。就此娑婆世界。呼喚衆生。令上大願船。送著西方。若衆生有上大願船者。並皆得去。此是易往也。 [迦才@弘法寺:「淨土論」卷下]…「日本往生極楽記」にはこの書名が記載されている。
阿彌陀佛與觀音勢至。乘大願船。泛生死海。不著此岸。不留彼岸。不止中流。唯以濟度爲佛事。[「淨土十疑論」]


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