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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.28] ■■■
[485] 円融天皇崩御哀傷歌
「今昔物語集」編纂者撰和歌集の10番は藤原朝光と藤原行成の歌。📖和歌集
後者は三蹟だが、前者ともども、歌仙扱いされている訳ではない。
  [巻二十四#40]円融院御葬送夜朝光経読和歌語

円融天皇崩御。(991年)
紫野御葬送。
人々は、法皇の子の日の行幸を思い出して悲しんだ。

そこでの歌2首である。

この行幸については別途記載されている。📖曽丹
  【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚)
  [巻二十八#_3]円融院御子日参曽祢吉忠語
 (984年に退位された翌春2月)
 円融院は、御子の日に千代の祝賀行事を開催。
 場所は船岳。
  御所は堀河の院。
  二条から西へ大宮。さらに、大宮から北に上った。
  見物人で立錐の余地なし。
  お供の上達部殿上人の装束は見事極まった。
  雲林院南の大門で馬に乗り換えて、紫野に到着。
 宴の場は船岳の北。


閑院左大将朝光大納言[951-995年]1首。
 紫の 雲のかけても 思ひきや
  春の霞に なして見んとは
 [後拾遺#541]

行成大納言[972-1028年]も1首。
 遅れじと 常の御幸は 急ぎしを
  煙にそはぬ 旅の悲しさ
 [後拾遺#542]

この二人になるのは順当なところだろう。
師輔[909-960年]
├──△安子[927-964年]…村上天皇中宮 冷泉天皇・円融天皇生母
├──〇伊尹[924-972年]摂政
┼┼└──〇義孝[954-974年]
┼┼┼┼┼└──〇行成[972-1028年]大納言…書道三蹟
├──〇兼通[925-977年]関白
┼┼├──△[947-979年]…円融天皇中宮
┼┼├──〇顕光[944-1021年]
┼┼┼┼└──〇重家[977-n.a.年]
┼┼└──〇朝光[951-995年]
├──〇兼家[929-990年]関白
┼┼├──〇道隆[953-977年]関白
┼┼┼┼└──△定子[977-1001年]…一条天皇皇后
┼┼└──〇道長[966-1028年]関白
┼┼┼┼┼├──△彰子[985-1074年]
┼┼┼┼┼├──〇頼通[992-1074年]
┼┼┼┼┼└──〇教通[996-1075年]
┼┼┼┼┼┼┼┼藤原公任女[1000-1024年]
└──〇為光[942-992年]
┼┼┼├─────〇斉信[967-1035年]権大納言
┼┼┼└─────〇道信[972-994年]
📖系図@藤原公任の歌

ただ、藤原実方📖→にも円融院の喪の歌がある。
 正暦二年、諒闇の春、桜の枝につけて、道信朝臣に遣はしける。
 墨染の 衣(頃も)憂き世の 花ざかり
  をり忘れても 折りてけるかな
 [新古今#760]
藤原道信の返し。
 あかざりし 花をや春も 恋ひつらむ
  ありし昔を 思ひ出でつつ

こちらは、紫野も子の行幸も触れられていない。円融寺北原で火葬、父村上天皇陵の傍らに遺骨が納められたのだから、当然だろう。(龍安寺裏朱山に円融院火葬塚が残存。)
実方と行成の和歌を巡る口論とはコレではなかろうか。

この譚は、「今昔物語集」編纂者の意地悪であろう。葬式行列が紫野へ行く訳がないのだから。

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