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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.3] ■■■
[491] 赤染衛門の歌
「今昔物語集」編纂者撰和歌集の21番は、紫式部の同僚(藤原彰子仕え)と言われている赤染衛門[956-1041年]の3首。

情熱的恋歌の手ではなく、穏健で知的表現に長けているので頼まれることも多かったようで、代作がかなりの数残っているようだ。ここでは、息子と夫にかかわる歌のみ。
いずれも、歌の威力を示すもの。
  [巻二十四#51]大江匡衡妻赤染読和歌語

○赤染時望の娘 赤染衛門は大江匡衡の妻となった。(977年頃)
 息子 擧周は優れた文章家に育ち、朝廷に仕え、
 和泉守として赴任。
 母の赤染衛門もそれに同行。
 ところが、擧周は思いがけず病気を患ってしまった。
 長い間病床にあり、次第に重くなって来たが、
 母は、嘆き悲しむ以外どうにもできない。
 そこで、住吉明神に御幣玉串を奉って病気平癒を祈った。
 玉串には和歌を書き付けて奉納した。
 大江挙周朝臣重くわづらひて限りにみえ侍りければよめる。
 代はらむと 思ふ命は 惜しからで
  さても別れむ 程ぞ悲しき
 [詞花#362]

 その夜、息子は平癒した。
 (奉りての夜、人の夢に、髭いと白き翁、
   このみてぐらを三ながら取ると見て、おこたりにき。[「赤染衛門集」])


○擧周がとある官職を望んだ。
 そこで、母の赤染衛門は
 鷹司殿(藤原道長の妻 倫子)のもとに歌を送った。
 思へ君 頭の雪を 打ち払ひ
 消えぬさきにと 急ぐ心を


 御堂はこの歌を御覧になり、たいそう哀れんで、
 擧周を和泉守に任命したと言われている。
 (「和泉を」と申しに、なりて後のつとめてぞ、御返し は賜はせたりし。[「赤染衛門集」])

○夫の匡衡の浮気が発覚。
 そのお相手は(伏見)稲荷(杉:ご神木)禰宜の娘だった。
 赤染衛門のもとには来なくなっていたので
 夫が居る禰宜の家に歌を届けさせた。
 我が宿の 松(待つ)はしるしも 無かりけり
  杉(過ぎ)むらならば たづね來なまし
 [後十五番歌合#6]

 匡衡は恥じ入ったようで、再びもとの鞘に。
 稲荷にも行かなくなった。
 
 <返歌は非収載>和歌の力を見せるには邪魔。
 人を待つ 山路分れず 見えしかば
  思惑ふに 踏み過ぎにけり
 [匡衡集]
   ⇒源俊頼[1055-1129年]:「俊頼髄脳/俊頼朝臣無名抄/俊頼口伝集」1113年
      【四】歌人の範囲 (三輪の明神)
📖「俊頼髄脳」好み

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