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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.11] ■■■
[499] 藤原惟規の歌
「今昔物語集」編纂者撰和歌集の末尾27番は、紫式部弟の藤原惟規[974-1011年]1首。
  [巻二十四#57]藤原惟規読和歌被免語

大斎院(村上天皇御子第十皇女 選子内親王)は和歌の達人。📖大斎院
蔵人の藤原惟規が📖紫式部の父弟
賀茂斎院の女房と密かに語り合う間柄に。
毎夜、局に入ろうとするのを、侍が見咎め
誰なのか確かめようとしたが
答えずに入ってしまうので
すべて閉門してしまった。
女房は困り果てて斎院に申し上げたので
惟規は御門から出ることが出来た。
その時に歌を詠んだ。
 神垣は 木の丸殿に あらねども
  名告りをせねば 人咎めけり
 [金葉集#990]
   ⇒源俊頼[1055-1129年]:「俊頼髄脳/俊頼朝臣無名抄/俊頼口伝集」1113年
      【十一】季語・歌語の由来
📖「俊頼髄脳」好み

後日、これを知った斎院は、木の丸殿は聞いて知っているとおっしゃった。
 題しらず 天智天皇
 朝倉や(斉明天皇行在所) 木の丸殿に(丸太御殿) 我が居れば
  名告りをしつつ 行くは誰が子ぞ
 [新古今#1689]

惟規の子孫の盛房の伝聞。
惟規は和歌の巧者なのである。

所謂、本歌とり。
お蔭で、勅撰和歌集を丸暗記していないと、無教養で才無しとされるのだろう。

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