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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.19] ■■■
[507] 天水布教
般若経の震旦霊験譚を引用収録しただけのパートがある訳だが、構成を見るに、よく考えていることがわかる。📖震旦般若経霊験
このような譚を、面白譚と同様に楽しんで読むことができないと、「今昔物語集」を味わっているとはいえないので、他譚に引き続いて眺めておこう。
  [巻七#_8]震旦天水郡志達依般若延命語
話は単純。ほぼ翻訳に過ぎない。

「大品般若経」を、そうと知らず、と言うか「老子経」かと思って書写したら違うので、僅か3行で終了。しかし、その功で83才という長寿を得た。それだけのこと。
  天水の張志達。
  書籍に憑いており、道士の法を讃嘆し信仰していた。仏法は全く知らない。
  親友の家を訪問した時のこと。
  家主により、大品般若を書写することに。
  志達は、それを老子経と思い、尋ねたところ、
  冗談半分の答だったが、その通りと言われたので書写することに。
  しかし、始めて3行で、違うことに気付いた。
  嘘だ、と言うことで、すぐに捨て去り、その場から去ったのである。
  それから3年経ち、重病にかかってしまい、死亡。
  しかし、一晩経って蘇生。
  すると、涙を流して泣き悲しみ、過悔。
  書写した家を訪れ、
  君は我の大善知識であり、その徳で生き返えることができたと告げたのである。
  家主は驚いてその理由を尋ねると、
  閻魔王が、大品般若三行を書写し奉った功徳ありとして
  命を増やしてくれたというのである。
  志達は自宅に戻ると、私財を投げ捨て、大品般若八部を書写して、心を尽くし供養。
  その後、病にも罹らずに83才まで生きた。
  書を残し逝去。
  「千仏来て、我れを迎へ給ふ。般若経を以て翼として、浄土に往生す。」


この話のポイントは、この地が天水である点。

天水と言えば、4世紀に作られた麦積山石窟(匈奴系北涼)遺跡が一大観光地化したので世界的に知られているが、現代中華帝国の丝绸之路の鉄道版 陇海铁路でも要衝の地と言えよう。(西の終点は鹿特丹(ロッテルダム)で、西安(長安)〜咸〜宝〜=〜天水〜州と、甘粛から西域へと繋がる入口。)
南に進めば四川盆地に繋がる。
つまり、突厥・蒙古・吐蕃・漢の四族接点に当たり、中華帝国の概念を生み出した大元の可能性は高い。
📖河西走廊

そんな地だが、渡来仏教に対抗した土着道教の一大拠点でもあった。

古代から革命思想を根底に抱える国だから、道教も断絶だらけで、伝統が残っているとは思えないが、時の権力者と儒教の体質に合わせることで、現代まで生き延びているのは確か。そんなことで、道観(玉泉観/城北寺 or 崇寺[666年唐高宗代])が観光地として整備されているようだ。
この地は、道教に思想的お墨付きをつけた地だから、当然の動きでもある。・・・

周の哀退を予知した老子は国を去るべく函谷関へ。そして、関令の尹喜/文始先生無上真人に「老子道徳経」を書き与えたとされる。[「史記」老子伝]両者は切っても切れぬ関係なのだ。そして、この尹氏とは、天水の地の宗族。
「酉陽雑俎」によれば、老子/太上老君は妙玉女/無上元君から誕生したとされており、天降玄黄であり、📖「酉陽雑俎」の面白さいかにも仏教ストーリー的だが、小生はこの女神は尹氏の女祖と睨む。

無茶苦茶な推定ではあるものの、中華帝国では神話は抹消されてしまったから、このような勝手な読みしかできないが、今村与志雄訳註の「酉陽雑俎」を読んで得たセンスからすれば、ほぼ間違いないと思う。
道教は、地場信仰の残渣を残していることがあり、そこから大胆に推定する以外に中華帝国古代史を読み取ることは不可能ということ。例えば、盤古→"元始天王"という昔の記憶を髣髴させる流れがあるということ。そして、伏羲/太昊 + 女[人面蛇身]も、そのような時代の信仰を伝えていると言ってよいだろう。📖古代神話なき社会

話が飛んでいるように感じられるかも知れないが、その伏羲が生まれたのが天水とされているのだ。(廟が建てられている。)人首蛇身で、文字、八卦を考案し、婚姻の礼を定めたという。また、網を作って漁労を、火種を与えて動物の肉を焼くことを人類に教えたともされる。こうした儀式が周代に整備され、帝国化のために各地バラバラな神話はすべて葬られたのだろう。

⑧話は、こんな風に道教を思い巡らすように仕掛けた題材で、外道教化譚とも言える。

この観点では、もっと直截的な譚がある。

それは③譚だが、漢族の中核地域たる"中原"の豫州での話。函谷関を出て渭水の盆地から甘粛に入る天水とは訳が違う。
  [巻七#_3]震旦豫州神母聞般若生天語
 予州の老母。
 若い頃から因果否定の邪見に固まっており、
 鬼神崇拝の邪教を深く信仰していて、
 仏法を嫌悪していた。
 そのため、寺や塔といった仏教関係には近寄らないし、
 道で僧に遭遇すれば、見ないよう目を閉じ引き返していた。
 この邪教は「神道」と呼ばれており、
 老母の通称名は「神母」。
 たまたま、黄牛1頭がこの家の門外に来ていた。
 その後、3日間、居たが所有者表れず。
 そこで、神の贈り物として、家に引き入れようとした。
 ところが牛の抵抗にあい、帯で引き摺ることに。
 すると、牛は逃げ出してしまった。
 帯が付いているので追跡していると、ついには寺の中に。
 神母はしかたなく、目を塞ぎいで寺に入り、
 顔をそむけて立っていると、寺僧達が出てきて
 心の邪見が現れていると、憐れみ、
 「南無大般波羅蜜多経」を称えたのである。
 それを耳にした途端、神母は、寺から走って逃げ出し、
 水辺で耳を洗い、
 不吉な言葉を聞いたと怒りあらわに、
 その題目を3度口に出してしまった。
 そして帰宅したが、牛は戻ってこなかった。
 その後、神母は罹病し、死去。
 娘が悲しみに暮れていると、夢に神母が出現。
 「閻魔王の裁きを受けた。
  悪行ばかりで、善根無しなのに、
  前世の所業記録札を調べ、笑顔で仰せになった。
  "汝には、般若を聞いたという善根がある。
   速やかに人間界に戻り、般若経の教えに忠実に生きるように。"と。
   しかし、人間界の寿命が尽き果てていたので、蘇生できなかった。
   そこで、利天に転生することに。
   そのようなことだから、嘆き悲しまないように。"と。
 そこで、目が覚めた。
 それを契機に、娘は発心。
 母を思って、「般若経」300巻余りを書写。


道教と言えば神仙道士イメージが濃厚で、「酉陽雑俎」でもその辺りに親近感があるからこそ、様々な話を収録している訳だが、今村註を注意深く読むと気付かされるのは、それとはかなり異なる、呪術家の「教会」組織が存在している点。
これを普通に解釈すれば、震旦仏教は神仙道教という流れと同居しながら、"士"、つまり官僚クラスに深く浸透していったと考えられる訳だ。裏を返せば、都市文化や国際交易に関係する人々を除けば、そうした地平とはかなり隔たっている大多数の人々が存在していることになる。

この譚は、いみじくもそれを指摘しているとも言える。

"仏道"に対抗する、"神道"が成立していたのである。教義や行儀・戒の存在も、仏教嫌いの姿勢という表現で、その存在を示唆していることになる。
神仙道教の養生医薬に、土着の卜筮占が加わり、古代からの娘娘信仰体質が重層されて、"神母"との通俗的称号も一般化していたことも示されている訳だ。
"国際交易"を人々が享受している間はこうした存在も外道扱いですむが、そんな環境が壊れてしまえばそれどころではなくなるのは自明。一気に非漢の渡来異教として、排斥されること必定なのだから。
中華帝国の存立基盤は、あくまでも宗族第一主義の独裁制度にあり、仏教取り入れは、そのための合理的判断以上ではない。道教教団が仏教教団より利があるとなれば、即座に仏教廃絶に進んで当然。もちろん、逆もありうる訳で。儒教国の信仰とはそういうもの。
それこそが、中華帝国4000年の歴史である。

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