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2004.12.10
 
 


植林の意義を考える…

 一時、絵本「木を植えた男」(1)が流行った。
 山に一人で留まった年老いた羊飼いが、毎日木を植えて、荒れはてた土地を緑の森に甦らせた話だが、その生き方に胸をうたれた人が多かったようだ。

 フィクションの力は凄い。話題となり、多くの人が感動し、大きな流れになるからである。

 一方、ノンフィクションの世界での活動は地味だ。こちらは、なかなか大きな流れにまで発展しない。

 2004年のノーベル平和賞を受賞(2)したProf. Wangari Maathai のケニアにおける植林NPO活動(3)も、ほとんどの人は全く知らなかったと思う。

 たまたま、ケニアでの植林が注目されることになったが、実は、禿山をなくし、森を増やそうと苦闘している人は、世界の各地に存在するのである。

 もっとも、国土の過半が森林であるわが国では、個人が動くというより、政府主導の植林が積極的に進められてきた。
 1950年に始まった「植樹祭」(4)は年中行事として定着しており、緑の羽の募金を知らない人などいないと思う。
 お蔭で、人工林大国になった。大成果である。

 しかし、国内産用材は安価な輸入材と太刀打ちできる状況にはない。従って、国内の人工林維持は極めて難しい。
 用材調達の観点から言えば、植林は、国内より、海外が重要になったのである。(5)

 正直に語れば、マクロで見れば、国内の植林活動は意味がなくなったのである。

 日本では、植林を止めたところで、禿山になるとは思えない。山を荒れるにまかせても、新たな原生林が生まれるだけの話である。
 実際、都会の真ん中でも「自然の移りゆくまま」の森林緑地は、残そうと思えば、残せるのである。(6)

 こんな状況で、莫大なお金と多大な労力をかけて、わざわざ人工の森林をつくり続ける必要はなくなったと言える。

 「自然」な森が欲しいなら、植林などせず、放置すべきだろう。

 要するに、現在の「木を植える運動」とは、自然保護運動ではなく、林業維持活動になってしまったのである。
 このような植林をいつまで続けるつもりなのだろうか。

 そもそも、用材ビジネスが成り立たないのに、ヒトも野生動物も居心地は悪い、用材向け針葉樹(杉、檜、唐松)の人工林造りに相変わらず注力するる方針は異常としか言いようがない。
 こんな森なら、放置して原生林化すべきだろう。

 植林活動を続けるつもりなら、人々が楽しめる森を作るのが筋である。

 関東では、昔から落葉広葉樹が中心の雑木林(コナラやアカマツが中心)が普通だった。明らかに原生林を切り開いた結果だが、四季を感じながら、気持ちよく過ごせる森である。

 ここでは、落葉腐葉土が多種多様なキノコや虫の住処を提供し、大量の木の実が鳥や小動物の繁栄を支えてきた。
 我々が求めているのは、このような「自然」ではないだろうか。

 --- 参照 ---
(1) http://www.kogumasha.co.jp/data/1805.htm
(2) http://nobelprize.org/peace/laureates/2004/press.html
(3) http://www.greenbeltmovement.org/about_us.htm
(4) http://www.syokujusai.pref.ibaraki.jp/whats/change.htm
(5) http://www.jopp.or.jp/panph/panph4.html
(6) http://www.ins.kahaku.go.jp/int/about.html


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