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■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.15] ■■■
筑紫本営時代

13〜15代の頃。4世紀後半の頃である。朝鮮半島での高句麗の動きに対応せざるを得なかったから、求心力が働いたに違いない。しかも、「古事記」の逸話から見ると、呪術性濃厚な意思決定がなされたようである。

御陵地の変遷も特徴的で、[13]奈良佐紀⇒[14]羽曳野古市⇒[14皇后]奈良佐紀⇒[15]羽曳野古市となる。

この、佐紀は奈良盆地の北部。ほとんど関心を示していなかった地に突然墓地を開発したのである。これ以前の古墳はみかけない地である。たいした勢力も存在しない無風地帯であるため、大型古墳造成には適しているということで選ばれたのかも知れない。宮地は大軍団を送り出す地である瀬戸海側に置く方がよいが、御陵はどうしても奈良盆地内ということか。

●佐紀
  五社神276m▲▲▲=狹城楯列陵◇[14]皇后🈜
  ウワナベ265m▲△🈭
  市庭250m▲△◇51🈭
  佐紀石塚山220m▲△=沙紀之多他那美陵◇13🈜
  ヒシアゲ218m=◇[16]皇后磐之媛陵🈭
  佐紀陵山208m=沙紀之寺間陵◇[11]天皇妃日葉酢媛命▲△🈜
  小那辺204m▲△🈭
  佐紀高塚127m
  神明野114m
  塩塚109m
  佐紀瓢箪山96m
○佐紀遠南方孤立(大和西大寺駅南の尼ケ辻駅)
  宝来山226m▲△=菅原之御立野中陵◇11🈜

奈良盆地北側ということでは以下の古墳もあるが、佐紀とは無縁だと思われる。
〇現奈良
  伊邪河之坂上陵◇9
〇若草山山頂
  鶯塚103m
〇高畑
  吉備塚/[伝]真備墓20m

(ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。
   表紙>
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