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■■■ 古代の都 [2018.11.23] ■■■
[00] 高千穂宮(1:常世の国)

「古事記」記載の宮地を眺めているのに、高千穂宮を語るために、「常世の国」を取り上げるのはそぐわないような気もしたが、歴史観を理解する上で欠かせないので触れておくことにした。

脱線話になるが、少々、おつきあい願いたい。

「古事記」の本質を把握する上では、高千穂宮は絶好の題材。従って、以下、お読み頂いて、ふと感じるところが少しでもあればそれで十分。記載した情報は、はっきり言ってどうでもよい。気付きが生まれる端緒となりさえすれば、目的は達しているからだ。

くどいが、「古事記」とは、"日本"に於ける神権政治の叙事詩である。ところが、すべての時代を順にカバーしているので、歴史書としても読めるのである。画期的な書と言ってよいだろう。

叙事詩であるから、その観点で無意味と思われる話は削除されている筈。収載されている話も、人々の琴線に触れる話であれば、誇張されたり、語り手が色を付けたりしているだろう。その程度の潤色はあって当然。しかし、それらは"事実"を反映したもので、"フィクション"ではない。

一方、「日本書紀」は律令国家の公的な漢語の"史書"。大勢の官僚が、収集した材料をもとに矛盾を最小限にすべく頭を捻って編年体に編纂したもの。その当時の政治思想で理解できるように、断片情報をパッチワークで仕上げた一大労作だが、それ以上ではない。
従って、同じ伝承を記載しているように映っても、似て非なる話になっている可能性が大きい。両者を混ぜて理解してはいけないのである。
例えば、"天孫降臨"なる概念は、「日本書紀」では100%当てはまるだろうが、「古事記」では不適。面倒なので、天皇名と同じで、どうしてもこの用語を使うが、本来的には避けるべき。古事記は冒頭から、"天"はアマと読めとしており、漢語の"天と地"のテンの意味ではないと注意しているからだ。

歴史とは、本来的には文字があって初めて残せるものだから、「古事記」はある意味矛盾していると言えなくもない。しかし、だからこその挑戦とも言える。つまり、文字使用を敬遠し続け、口承にこだわり続けた"日本"古代人の心根を描こうとしているからだ。

以上の大前提だけはお忘れなきよう。

高千穂宮は「古事記」上巻末尾に記載されている。
 日子穗穗手見命者坐 高千穗宮 伍佰捌拾

年齢表記の五百[いほ]、八十[やそ]は中巻で使われている算数字とは違い、多いことを示す形容語である。極めて古い時代の話であるというに過ぎない。
注目すべきは、その次ぎに記載されている4柱の御子のうち、東征に参加しない御子の行先。
 故 御毛沼命者跳波穗渡坐于常世國
 稻氷命者爲
妣國而入坐海原
妣國は、須佐之男命が哭き叫んで行きたいと願った地であるが、常世國は大国主命の国つくりに当たって、突然船に乗って渡来した、神産巣日の神の御子 少名毘古那が、大国主とともに国土を成した後に帰って行った地。
 故 自爾 大穴牟遲 與 少名毘古那 二柱~ 相並 作堅此國
 然後者 其少名毘古那~者 度于
常世國
この辺りは、「伯耆國風土記」逸文にも地名(@米子 彦名 粟嶋)起源譚の記載がある。
 ・・・粟嶋あり、少日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實りて離々りき。
 即ち、粟に載りて、
常世の國に彈かれ渡りましき。故、粟嶋と云う。
[@日本古典文学大系2,岩波書店,1958]
御毛沼命は、浪を跳ねて渡航したとされるから、かなりの潮流をもろともせずといった情景。独特な航海術に長けていた訳で、サーフボード様式のアウトリガー舟に乗って、外洋の荒海を進んでいったのでは。内海に入り阿波にというのではなく、外海黒潮に乗って安房に到達というイメージか。

この「常世の国」だが、「古事記」中巻でも登場する。11代天皇が多遲麻毛理に"ときじくのかくの木の実"を求めさせたが、その間に天皇は崩御という有名なくだり。
 天皇 以 三宅連等之名 多遲摩毛理 遣常世國令求登岐士玖能迦玖能木實
 故 多遲摩毛理遂到其國採其木實 以縵八縵矛八矛將來之間 天皇既崩


一般的には、その果実とは橘とされている。照葉常緑樹の果実だからだろう。
典拠にできる古い資料は萬葉集しかないし、他に該当しそうな果実も考えにくい。・・・
冬十一月、左大弁葛城王等に、橘の氏を賜姓へる時、みよみませる御製歌一首 [「万葉集」巻六#1009]
 は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木
雪降る冬に毎年実を付ける点に感じ入ったからこその、"ときじく"と言うことのようだ。
天皇のみよみませる御製歌 [「万葉集」巻一#25,26]
 み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける
 間無くそ 雨は降りける その雪の
時なきがごと
 その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

     或ル本ノ歌、
 み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るちふ
 間なくそ 雨は降るちふ その雪の
時じくがごと
 その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

     右、句々相換レリ。此ニ因テ重テ載タリ。

その"ときじく"だが、富士山イメージも重なっているようだ。つまり、富士山は高さや格好で不二と評価されているのではなく、不時の山なのである。しかも、そこは、"天の原"と繋がっているらしい。但し、天地の 分かれしという見方だから「古事記」発想ではないが。
誰でもが知る和歌の前段である。・・・
山部宿禰赤人が不盡山を望みてよめる歌一首、また短歌 [「万葉集」巻三#317,318]
 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば
 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず
 白雲も い行きはばかり
時じくそ 雪は降りける
 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は

     反し歌
 田子浦ゆ 打ち出でて見れば 真白くそ 不盡の高嶺に 雪は降りける

ご神体としての富士山を祀るに、女神があてられているのは後世の話だと考えていたが、黒曜石時代の超古代の不死山信仰という気もしてきた。そうだとすれば、娶る相手として美しい木花之佐久夜毘売を選び、醜かった石長比売を父の元に返したことで短命化という話もよくわかる。
天照大神が治め安定化した社会を作り上げた"高天原"から折角降臨してきたものの、醜くい姫を遠ざけた行為に及んだから、皇位継承争や反乱が勃発する短命政権の社会になるゾと看破した訳だ。

そして、実際、その言葉通りになったのであろう。

(鮫では有りえない。)トーテムの南方系部族と婚姻関係を結んだにもかかわらず、その後、明らかにそれを捨て去ったからだ。
考古学的には、貝の装飾品文化を棄てた訳で、南方の風俗である文身も止めたりと、ドラスティクな転回である。当然ながら、従来の文化に拘泥する人々とは抜き差しならぬ対立関係が生まれることになる。

これを、考古学的な時代感で勝手に当て嵌めると、環濠集落や高地城塞的集落の戦乱時代が始まったことを示唆しているともとれる。

教科書的な解説と「古事記」の歴史観は違う訳である。普通は、水稲栽培技術が渡来し、生産余力が大きかったお蔭で飛躍的に戦闘能力が向上し、水利権と土地利用権の熾烈な奪い合いに繋がったと見るが、そうではないということ。

せっかくだから、"ときじく"についても、少し見ておこう。

常識的に判断すれば、照葉常緑樹に太陽のように光り輝く黄金色の球形実が成る木こそ、扶桑に映るということ。現代の感覚では、単に、南方由来の柑橘系果樹でしかないが、そうそう入手できなかったのだろう。
ただ、黒潮に洗われる沿岸域では古代から植えられていた筈である。そこは楠(太平洋側海人の舟材)が育っている地域でもある。

と言うことは、「常世の国」に、死出の旅路の終着駅というイメージがある筈もなく、渡航可能な実在地と見なされていたと考えるべきだろう。ただ、その地は遠く、簡単に行き着けるものではないだけの話。
「万葉集」でのコンセプトは"明らかに、海の彼方の世界である。
大伴宿禰三依が離れてまた相へるを歓ぶ歌一首 [「万葉集」巻四#650]
 我妹子は 常世の国に 住みけらし 昔見しより 変若ましにけり
松浦仙媛の歌に和ふる一首 [「万葉集」巻五#865]
 君を待つ 松浦の浦の 娘子らは 常世の国の 海人娘子かも
水江の浦島の子を詠める歌一首、また短歌 [「万葉集」巻九#1740]
 春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の・・・
 ・・・水江の 浦島の子が 堅魚釣り・・・
 ・・・海若の 神の娘子に たまさかに い榜ぎ向ひ
 相かたらひ 言こと成りしかば かき結び
常世に至り
 海若の 神の宮の 内の重の 妙なる殿に
 たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして
 永世に ありけるものを・・・


つまり、海の彼方にある常住不変の国。永久不変/不老不死の世界でもあるとされたのだろう。

もちろんコレは倭語。漢語だと現世の意味になってしまう。

にもかかわらず、蓬莱とか仙都を訓読みでトコヨとしているから、ゴチャゴチャになるのである。と言うか、意図的な習合と見てよかろう。
【「丹後國風土記」逸文 浦𪤧子】與謝郡 日置里 此里有筒川村(浦島伝説)
筒川の𪤧子=水江の𪤧
 君宜廻棹赴于蓬山[とこよのくに]
 人間[ひとのよ]と
仙都[とこよ]の別を稱説き、人とと偶に會へる喜びを談義る。・・・
 𪤧子・・・涙を拭ひしくひて哥ひしく
 
常世べに 雲たちわたる 水江の 浦嶋の子が 言持ちわたる・・・
大陸に於ける不老不死の世界とは、渤海の東の海にある仙人が住む"蓬莱"の地であって、"常世"ではない。「山海経」海外東経での、"湯谷上有扶桑"と類似の概念。海上遥か東の島に太陽が昇る御神木があるとの古代人信仰を反映したものである。そもそも、東=日(太陽)+木なのは自明。
おそらく仏教の東方浄土思想の発祥も同根だろう。
「古事記」に登場する"高木の神"も本来的には、ここらが発祥だと思われるが、高天原の代表として振舞っているようだし、ここぞという時にたびたび登場するから、大陸と違って極めて近しいところに居るとされている。日本自体が東方の島だからだろう。

山東半島の東方に住んでいると思われていた倭人のこうした"常世の國"感覚はおそらく大陸にも伝わっていたに違いない。だからこその徐福の蓬山に向けた出航が発生したと思われる。時は秦始皇期。(「史記」巻百十八 淮南衡山列伝)

ズルズルと書いてきたが、そこから見えてくるものは、温帯黒潮域島嶼文化圏特有の信仰。海の彼方の水平線から立ち上る太陽崇拝である。
その象徴が「橘」。
現代日本人は「橘」への愛着感は失ってしまったようだが、遥かな水平線からの御来光への想いは未だに持ち続けているのは間違いあるまい。

温帯黒潮域島嶼文化圏とのこなれぬ名称にしてしまったが、おしなべて箱庭のような環境で、自然にも恵まれている地域。和辻哲郎的発想で考えれば、ここは独立した文化圏と考えるべきであろう。
人類は東にあるユートピアを目指して移動したのだろうが、ついに大陸東の縁に到達。ところが、そこに嶋が産まれたのである。「古事記」はそんな超古層の精神をも語っていることに目を向けるべきだろう。
実際、その地での生活は、比較論で言えば世界最高水準だったろう。当然ながら、皆、長寿。
地名は「常世トコヨ」だが、冥界や思い描いた空想ではなく、漢語の意味通りの現実社会。当然ながら、高天原のモデル地。
絶対神天帝が御住みになる豪華絢爛な場所とは全く異なり、水田もあり、機織りに勤しむ社会。そこは垂直方向の「天テン」上にある特別な社会ではなく、水平方向にあり行き交うことが可能な「天アマ」。交流は"上る"と"下る"と呼ぶが、"昇る"や"降りる"訳ではない。

参考になるとは限らないが、「風土記」にも、常世の国に帰るかのような文章がある。死出の旅としがちだが、黒潮に乗って東へ旅立っただけ。・・・
【「伊勢國風土記」逸文 伊勢國號】国譲りを迫られる話。
 天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。
 其の邑にあり、名を伊勢津彦と曰へり。・・・
 天日別命、兵を整へて窺ふに、
 中夜に及る比、大風四もに起りて波瀾を扇擧げ、光耀きて日の如く、
 陸も海も共に朗かに、遂に
波に乗りて東にゆきき
 古語に、風の伊勢の國、
常世の浪寄する國と云えるは、蓋しくは此れ、これを謂うなり。

つけ加えておけば、琉球・奄美の信仰「ニライカナイ」は内容から見て、稻氷命者爲妣國而入坐海原也"の妣國の方に近い。常世の国的な純粋な東方海上信仰ではない。
沖縄は、人類がついに達したユーラシア大陸東端ではないから当然である。しかも、亜熱帯。人の生活を考えれば海陸ともに生産性は低い地。冬が無いから、貯蔵習慣も生まれにくいし。恵まれた環境たる意味での「常世トコヨ」発想は生まれようがあるまい。
ついでながら、照葉樹林文化圏を定義するとしたら、温帯黒潮域島嶼文化圏の亜流となろう。「橘」は照葉樹林植生に属すが、温帯でも黒潮沿岸なら十分育つ。照葉樹林帯は、人の手で環境を変えない限り、亜熱帯と同じで生産性は低い。これに対して、後者は葦の低湿地もあり、榮久庵憲司が指摘した幕の内文化が成り立つ豊饒の地。比較問題ではあるが、他地区から見れば垂涎の地だった筈。

と言うことで、"日向"とは、黒潮に接する海岸域で東に水平線が望める地での太陽信仰を示唆していると考える訳だ。

もっとも、その言葉を一般語彙を見なす人も少なくないそうだ。なんでも、古事記しか読まない人達は"竺紫日向之高千穗"北九州説を主張することが多いとか。

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