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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.22] ■■■
[21] 漢籍渡来と漢字伝来は別な話
なんといってもビックリさせられる解説は、漢字伝来が応神天皇代で、百済からというもの。しかも、出典「古事記」とか。しかも真面目にそう考えているようだ。
センスの違いと言えば、その通りではあるものの、唖然。

小生は、諸説批判や議論をしようとは毛頭思っていないが、「古事記」上巻でなく、中巻の記述に対して、この調子の解釈ではそうもいかなくなってくる。上巻から歴史観を読むに当たって、大きな障害となるからだ。

明らかに、上巻は年代感覚を捨てよという主旨で編纂されている。しかし、中巻では、年数が記載されるようになり、個々の事績の年代表記は避けているものの、おおまかには時代設定感覚は得られるように工夫されている。
従って、それを生かした読みが求められる訳である。

この"漢字伝来"として取り上げられている話とは、簡単に言えば、以下のような筋。・・・
百済昭古王(読みから見ると、5代肖古王在位:166年-214年だろうか。)は牝牡馬に阿知吉師を付け献上。さらに、横刀と大鏡も。天皇は賢者も貢ぐべしと命。「論語」と「千字文」と共に和邇吉師が参上。文首等の祖となる。[「古事記」中巻]

この事績は「日本書紀」にも掲載されており、こちらは当然ながら年号入り。しかし、「論語」と「千字文」については触れていない。百済の扱いのトーンも微妙に異なるようだ。政治的に配慮せざるを得ない公的史書らしき記載と言えよう。・・・
(普通に考えれば、百済救済のために国力を削がれかねないリスクがある派兵などしない。百済が崩壊したら、新たな枠組みでパワーバランスを構築するだけで十分なのだから。しかし、儒教型の天子-官僚帝国の仕組み維持のドグマからすれば、百済救済が筋。派兵した時点で、儒教型国家統治に進む決断をしたことになる。ただ、革命是認で宗族信仰という宗教性を取り払わねばならないから、転換は簡単ではなく、国論一致は困難。皇位継承問題はそこらの対立も絡んでいる筈だ。)
【応神天皇15年[284年]】百済昭古王(年代からすれば8代古爾王在位:234-286年だろうか。5代肖古王の兄弟である。)が阿直岐を派遣し馬2匹献上。経典に堪能なので皇太子菟道稚郎子の師に。さらに優る博士として推薦された王仁招聘。翌年渡来、師として活動。書首等の始祖。[「日本書紀」巻十]
その王仁が詠んだとされる歌があり、倭語も非常に堪能だったことがわかる。末子菟道稚郎子、大雀命、長兄での皇位継承争い決着の微妙な思いが重なっているのかも。…
   おほささきのみかど(仁徳天皇/大雀命[290-399年])を、そへたてまつれるうた
  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
   今は春べと 咲くやこの花
  [「古今和歌集」仮名序]

この程度の情報だけでも、この事績の意味はだいたいつかめる。おそらく天皇の命により、百済王が、最適な"学習用"漢籍を献納したということ。
太安万侶は、ココを結節点と考えたのである。

よくよく見ていくと、いかにも感が得られる筈。・・・

「論語」は巻数が半分しかなく、数字を間違える筈がなく、"簡略版"を意味していよう。「千字文」とは、当時の教育漢字1,000文字筆記練習用テキスト。簡略版とは暗記しやすいよう減巻編纂されたもの。もともと「論語」は、完本にしたところで、漢字は2,000文字種を越える程度であり、現代人の漢字習得レベルとたいして変わらない。漢籍入門書としては最適なのだ。

実際、木簡に書かれた「論語」と「千字文」が平城京跡で多数出土しており、漢字学習が一世風靡というか、ほとんど貴族層の義務教育化したのは間違いない。
実は、そのために、「古事記」の記載が"捏造"的と見なされていたりもいる。

と言うのは、その「千字文」とは、5世紀成立した定番書だからだ。・・・
  周興嗣[470-521年]@梁 武帝:「千字文/次韻王羲之書千字

確かに、周興嗣の書は冒頭句が"天地玄黄"で超有名。南朝から唐代にかけて大流行し、宋代以後全土に普及したそうだ。
しかし、それにもかかわらず、その後も様々な人が「千字文」を作っている。この書名は固有名詞ではなく、一般用語でしかないのである。つまり、周興嗣の書が初登場の筈がないのである。

そのような古い「千字文」の例としては、乾隆帝@清が持っていた、"二儀日月"で始まる太傅 定陵侯鍾繇[151-230年]版がある。
ただ、この残帖には欠字・重複字があり、かなり粗との印象を与える。しかし、"魏大尉鍾繇千字文・右軍将軍王義之奉勅書"とあり、それなりの質を担保している書である。
これが「古事記」記載の「千字文」に当たるとは限らないが、太安万侶が、わざわざ嘘をつく必要もないから、その手の書と見た方がよいと思う。

そんな些末なことに拘るのは、ここでの記述は、太安万侶の歴史観を探るに当たって重要な意味を持つと考えるからでもある。

要するに、ついに中華帝国の儒教的統制国家にしないと国家存亡の危機に直面するとの判断から、最適な"学習用"漢籍導入を決断したことになろう。
そして、太安万侶が、百済国に先進性を見ている訳ではないことも、読めば歴然。天皇が献上を命ずる隷属的地位の国家にそのような期待がある筈がないからだ。そのような主張はイデオローグの仕掛け以外のなにものでもなかろう。

つまり、この時点を、文化的先進国から漢籍が始めて渡来しとみなしたのではアカンということ。

古代事績を記載した書は、現時点では「古事記」が最古と言わざるを得ず、漢字到来を探るには、ここから情報を得るしかない。従って、「論語」と「千字文」を最初の書籍と認定せざるを得ないのは致し方ないとも言えなくもないが、常識で考えればそんな筈がなかろう。

そもそも、倭国は外交に於いて漢字を使っていたのは明らかなのだから。

そのような漢字文書は、使節が海外渡航後、暗記していた詔を倭語がわかる漢人に翻訳させたものと考えるなら別だが。
陳寿:「魏志倭人伝」280-297年(「魏書」巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条)成立時、すでに文書による外交関係が樹立済とはっきり書いてある。
 (倭国)王遣使 詣京都[洛陽]・帶方郡・諸韓國
 及
 
(帶方)郡使倭國
 皆臨津搜露
 傳送文書・賜遺之物
 詣女王 不得差錯

このことは、漢字渡来はかなり古いことになろう。漢籍は渡来しなかったが、漢字は渡来したと考える人は別だが、「古事記」の「論語」と「千字文」が初の筈がなかろう。

当然のことながら、漢語は外交文書に使ってはいるものの、国語に認定されている訳ではない。朝貢しているものの、それが隷属を意味していないのは、金印授与ではっきり示されている。コレ、常識と違うのか。
倭国からすれば、国際情勢を勘案した上で、安定した交易と知識入手のための、中華帝国の天子に対する敬意を示すための朝貢以上ではなかろう。半島とは違い、直接的軍事的圧力のブラフは受け無いから、隷属する必要はなかったのだから。

印には無論ランクがあり、中華帝国の天子だけは玉璽。金印はそれに次ぐもので、同等扱いの国家の王に対して授与される印。(しかし、金印の威光も、王朝転覆ですぐに消滅するのだから、倭国は後生大事に保管する気はなかったようだ。交易承認用印としての価値しかないと見たようだ。
ちなみに、朝鮮半島は、倭国か中華帝国のどちらが宗主国になるかという状況だったから銀印以下。軍事力を発揮できた時もあるが、扱いは、中華帝国の辺境国以上ではなかった。現代用語で言えば植民地扱いとなんら変わらない。これは当然のことで、朝鮮半島では、国内公式文書を読むのに宗主国言語を使うしかなかったからである。中華帝国の王朝転換に合わせ、読み言語も変更する状態が続き、ここから脱することができたのは現代に至ってから。)

そもそも、こうした印は、外交の公的文書に捺印するためのもので、権威を示すための飾り物ではない。
つまり、この時点ですでに、漢字は外交文書で普通に使われていたことになろう。

しかし、外交以外では漢字は全く使われていなかった可能性が高い。読めない国内文書を発行しても意味ないからだ。つまり、朝鮮半島とは違い、漢語は中枢機構の言語ではなかったことになる。
ここが重要なところ。

そうなると、完全な無文字社会だったということになるが、小さく閉鎖的なコミュニティでもなく、少なくとも小国家連合の統治形態でありながら、それが成り立つとも思えない。単純な記号や縄文字で果たして機能するものか考えさせられるところだ。
ともあれ、外交以外は、倭語だけでこと足りる仕組みだったのは間違いなさそう。

その大転換の先駆けと言うか、漢字文書による国内管理方針を打ち出したのが、3世紀末というのが、太安万侶の見立てということになろう。
そのために、教育漢字1,000文字と初等漢字テキストが決まったということ。

その後、「宋書」夷蛮伝 劉宋順帝 昇明2年[478年]に収録されている「倭王武上奏文」は、漢籍からの引用が多く、この時点での朝廷中枢は中華帝国との交流で質的に引けを取らないレベルに達したといってよいだろう。
そして、"辛亥年七月[471年]・・・獲加多支鹵鹵大王[大長谷若建命]・・・(115文字)"の金錯銘鉄剣@稲荷山古墳が存在するから、5世紀末には、中央だけでなく、全国レベルで漢字使用が当たり前になったことがわかる。

ここで、注意を払う必要があるのは、倭国は、南の呉ではなく、北の魏と外交関係を締結している点。公的には、呉とは百済というバッファーを通していたようだ。
呉からの渡来文化の影響は大きいのは、未だに、我々が漢字を読むのに"呉音"を用いていることにも表れている。

公的史書である「日本書紀」は漢文だが、その読みは漢音(唐が統一した長安発音)であるのに対し、非漢文で漢字表記の「古事記」の漢字の読みは原則的には呉音となる。
「古事記」は仏教伝来は無視だが、「論語」と「千字文」で学び始め、それから一回りした60年以上たってから、538年の仏教公伝となる。(or 欽明天皇13年[552年]@「日本書紀」)。仏教の漢語読みは今でも原則呉音である。 📖仏教公伝

そして、おそらく、呉音が今でも残っているのは、日本列島だけだろう。

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