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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.9] ■■■
[39] 歴史の古代化は、図って当然
史書を読む気はなかったが、叙事詩「古事記」との違いを書いておこうかと思い立って、「日本書紀」をザッと、33代推古天皇迄眺めることになってしまった。
こう言っては失礼千万だが、史書としては随分と真面目に編纂していると感じた。イデオローグが、ほとんど偽書と言わんばかりの主張を繰り広げているから、そうなるだけのことだが。
要するに、官僚グループの知恵で最良の史書を作ろうとの意気込みを感じさせる書ということ。

そう思うのは、以下の3分類では③に当たっており、これこそが「史書」の一番の役割と考えているからでもある。
 ①絶対真実化(文書崇拝)
 ②モラルストーリー化(ご都合主義的取捨選択と潤色)
 ③政治的意思統一化

    同祖化・古代化(優越心⇒エスノセントリズム)
    陰謀原因化・虚構化(敵愾心)

そもそも"歴史"とは、複数存在するもの。できれば、それを比較しながら考えるのが最良だと思う。もちろん、実際には困難ではあるが。
現実には、中華帝国が先鞭をつけたように、帝国樹立のためには1つだけ残すしかないというに過ぎない。当たり前だが、異なる書を認めた瞬間、幻想にもかかわらず、リアルな実在概念に仕上げて来た"漢"民族が霧消してしまうからである。現代でも、まるっきりの偽造史を教育する国は少なくないし、儒教国とは、もともとそれが思想的根幹だから致し方ない。初めてしまえば、おさまりがつかない。
(司馬遷にしても、残存文書ベースでの編纂。そうした文書の位置付けにはヒアリングが不可欠で、その情報ソースはほとんど儒者なのであるから、仕上げたものは儒教型帝国のあるべき史書の形以上ではない。ただ、知識人としての営為でもあるから、その考え方は読み取れるというにすぎない。史実として信用できる云々の議論は学者以外にとって時間の無駄。不都合な真実が記載されていたならたちどころに焚書になっている筈で、残っているなら偽書の可能性の方が高いからである。)
(おそらく、忘れ去られているだろうが、日本の教科書に、ソウル解放の人民軍部隊を大歓迎する民衆との写真が掲載されていたのである。今でも、それを事実と考える人は少なくないだろうし、戦火の火蓋を切ったのはどう見ても北側だから、これをでっち上げと見なす人も多かろう。"歴史"とはそういうもの。)


こんなことを書いているのは、「日本書紀」の編纂者達が天皇の時代の古代化を図ったというのが通説になっているからだ。
「古事記」を読んで来たので、小生の見方は違う。
結論を言えば、日本の皇統史を古代化したのは、33代推古天皇の可能性が高く、それに反する資料に類する書が消されてもおかしくない、と推定。・・・
<卷十九>
[29]---天國排開廣庭天皇 欽明天皇
(高麗・百濟・新羅・任那日本府の課題山積の時代だったようだ。《百濟本記云》だらけになっている。)
<卷第廿二>
[33]---豊御食炊屋姫天皇 推古天皇
十年冬十月 百濟僧觀勒來之。仍貢暦本及天文地理書。并遁甲方術之書也。是時選書生三四人。以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳習暦法。大友村主高聰學天文遁甲。山背臣日並立學方術。皆學以成業。
廿八年十二月庚寅朔 嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。

公的記録が整理された上、臣連伴造國造が知った訳で、この内容を無視や否定はできまい。

推古天皇代の記録編纂での重要課題はおそらく2つ。
 〇系譜の古代化。
 〇継体天皇の皇統の正統性確認。

まずは前者。
史書編纂者はこの内容に従わざるを得なかったことになる。と言うか、真剣に編纂作業を遂行していただけとも言えよう。もともと、独裁を是とする儒教国家の中央集権型ではなく、連合国家的な合議で意思決定を図ることが多かったようだから、それなくしては、滅茶苦茶な要求に対抗できる訳がないからだ。(「古事記」が存在する位だから、「日本書紀」の内容について、天皇の指示がなかった可能性も高い。)

推古天皇期に、何故に、そのようなことを図ったかは、自明では。朝鮮半島の国々が多少自立的に動けるようになり、古代化させた史書を作成して中華帝国に提出したからである。
一時は日本が宗主国でもあったにもかかわらず、儒教お得意の小中華主義が勃興してきたので、対応を余儀なくされたというのが実情だろう。
中華帝国としては、半島とは、もともと属国扱い。朝鮮半島の国家の起源も漢民族としていた。しかし、相対的に半島経営の重要性が薄れたため放置したと見てよかろう。中華帝国に残っているのはそのような記録。朝鮮半島では文字資料は抹消されてなにも残っておらず、研究とはフィクションの世界にならざるを得ず、こればかりは、どうにもならない。
(金富軾:「三国史記(新羅本紀)」1145年が最古の書である。当然ながら、元資料は1つも存在していない。例えば、このような記載。・・・
  赫居世居西千三十八年,・・・瓠公者未詳其族姓.
  本倭人.初以瓠繋腰.度海而来.故称瓠公.

建国時の、"前20年"に、瓠公と称される倭人の臣がいたというのである。中国からの王が建国者という話を否定し、属国などではなく、古代から大国だったとする、小中華の書として編纂されたことは明らか。朝鮮半島の歴史とは、このような書をもとにして年次確定が行われているのである。)


それに、ここで暦法が入ってきたので、それなりの対応が図られた筈だ。消極的ではあったと思うが。と言うのは、中華帝国では天帝に命じられて天子が時間を差配することになるから、暦は極めて重要だが、時間軸を重視しない天竺や天の任命とは無縁で農暦重視の本朝では、天文暦にたいした意味はなかったのである。実際、 本朝への年号導入は驚くほど遅い。("大化"が初年号とされているが、瑞兆名でないから、白雉からとみなすべきだろう。それは650年こと。どうあろうと、律令制度の一環としての年号制定導入の意識は薄かったことを物語る。)従って、暦の絶対年代的記述は、後世の挿入と考えられなくもないが、すでにこの時点で記載されていたと見ることもできよう。
📖干支で絶対年代はそれなりに読める
太安万侶はここらの状況を理解していたかも。暦で記録するようになれば叙事詩不要となるから、「古事記」は自動的に33代天皇の記載をもって完了ということになる訳だし。

さて次は、全くもって真相がつかめない、継体天皇即位の経緯についてだが、別ページ建てにしよう。

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