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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.13] ■■■
[43] 建御雷男神系譜の不透明性
刀剣神8柱信仰は、建御雷男神/建布都神/豊布都神という人格神に集約されたとしたが📖刀剣神聖観念の由来、ここらは多少錯綜しているので整理しておこう。

この神の誕生には、迦具土~の血が深く関与しているが、国譲りの話に突然登場してくる建御雷~は、天尾羽張~が僕子と語っている。出自不明な、葦原中国に存在していた十拳劔は、その地では伊都之尾羽張と呼ばれるが、葦原中国で生まれた建御雷~と共に高天原に上ったことになる。
ところが、その地で静かにしていたのかと思いきや、川を逆流させて通行できなくして居住していると。
 逆塞上天安河之水而 塞道居故他~不得行
その通行不能と思える地に行き着き、葦原中国への派遣の命を伝えたのは天迦久神。

鍛冶作業は秘境とも言える山奥で行われており、そこへの交通手段であった船が使えないように、分水嶺でから河川の流れを変えてしまったのであろう。"迦久≒鹿児"説が広まっているが、確かに道なき地でたどり着けるのは、鹿位しか考えられないから、当たっていそう。と言うより、もともと、"香嶋"⇒"鹿島"と考えられ、建御雷~を祀る鹿島神宮が鹿を神のお遣いとしているから、そう考えるしかあるまいということだろう。

ところが、よくよく考えてみると、この一見俗っぽい見方こそ、太安万侶観を理解する上で鍵を握っているように思えてくる。

天降りするに当たって、突然、天鳥船神/鳥之石楠船神に乗船することになるからだ。伊邪那岐命と伊邪那美命が国生み完了後に生んだ神である。
この神は、古代の超巨大樹木信仰に基づく巨大丸太船の表象と思われ、"香嶋"にその操船海人族の拠点があったことを示唆していると思われるからだ。古代の鹿島神宮の地は、今と違って、島だったことになる。"鹿児島⇔鹿島"が示唆するように、この地は黒潮系の最終地(東端)とされたに違いないし。📖神代篇は海人の縦横無尽の活躍記
<掖玖島/屋久島>…九州最高峰[1936m]
  ⛩益救神社@宮之浦(御祭神:山幸彦)
<薩摩>
  ⛩和田都美神社(⇒枚聞神杜)@指宿(旧御祭神:開聞岳神)
<大隅>
  ⛩御崎神社@佐多岬(御祭神伊邪那岐命+伊邪那美命+綿津見三神+住吉三神)
<日向>
  ⛩青島神社@宮崎(御祭神:山幸彦)
<土佐>
  ○「風土記(逸文)」玉嶋: 是海神所賜白真珠也
  海津見神社/竜王宮@高知瀬戸城山(御祭神:大綿津見神)
<伊勢>
  綿積神社@松坂
  八代神社@鳥羽神島(伊良湖水道)(御祭神:綿津見命)
<尾張>
  綿神社(旧 八幡社)@名古屋北元志賀
<三河>
  綿積神社@岡崎柱(矢作川)…伊勢部/磯部
<下総>
  渡海神社@銚子高神西(外川浦日和山)(御祭神:綿津見大神+猿田彦命)
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<常陸>

 鹿島神宮(御祭神:武甕槌大神[武甕槌=建御雷])
 香取神宮(御祭神:経津主大神/伊波比主神/斎主神)…経津主大神≒豊布都神
  武甕槌大神勧請先⇒
   ⛩春日大社@春日野(御祭神:武甕槌命 経津主神 天児屋命&比売神)
   ⛩立木神社@草津(御祭神:武甕槌命)
   ⛩枚岡神社@河内出雲井(御祭神:天兒屋根命 比賣御神 武甕槌命 経津主命)

<他[前方後円墳時代の祭祀跡]>
   小滝涼源寺遺跡@房総半島突端野島崎灯台近辺


しかし、「古事記」には、それを示唆するような黒潮本流(西太平洋外海荒海)系の話は無い。確かに、そこは現代から見ても荒海そのもので、超過酷な航海になる筈だし、目視航法が難しいとくる。捨象して当然であろうと考えがち。
📖葦船・鳥船・石船・楠船記載の意味
だが、考古学的には伊豆七島との航路が存在していたことは、黒曜石流通で確実なのだ。
しかも、房総半島・伊豆半島からはオオツタノハ貝の貝輪が出土している。📖おおつたのは貝の話"言うまでもないが、倭では、貝輪がとてつもなく重要なアクセサリーであった時代があったことが知られている。その産地は屋久島以南。隼人以外にそれを扱える部族はいまい。"📖"高千穂峰降臨の見方 (2)

このことは、古代、直径3m以上の巨木刳り船が運行していたことを意味するかも。そのような巨樹の棲息限界が鹿島辺りだったか。そんな船こそ、鳥之石楠船神にピッタリではあるまいか。
鹿島神宮ご祭神の建御雷男神=香取神宮のご祭神の豊布都神という設定からすると、この地は黒潮海人が作り上げた一大コンプレックスだった可能性もあろう。そうなると、国譲りとは、黒潮側の元祖海人族が、傍流の対馬海流側の新興海人族に対して優位性を示した意味もあるのかもと思ったりして。

もっとも、そう考えると、どうにも合点がいかぬのは、刀剣鍛冶を象徴していそうな神が何故に黒潮海人の拠点である常陸の海側に座すのかという点。
実は、海彦山彦でも同じことを感じた。
   破御佩之十拳劒 作五百鉤
南九州では、釣り針は貝製ではなく、刀剣を鋳つぶしたり、鍛造で作っていたことになるからだ。砂鉄があれば、脆いながらもどうにか鉄塊は造れるだろうから、黒潮海人は一貫生産していた可能性さえある。

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