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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.24] ■■■
[54] 一応は善政天皇としてはいるものの
"民の竈の煙"というフレーズのお蔭で、仁徳天皇(16代 大雀命)の名前を知らぬ人無し。📖漢字2文字の諡号を眺めて

ただ、古事記は大衆的拡宣を目的とした書では無いから、"聖帝"イメージ形成の"事実"だけを記載しているに過ぎない。それが政策の根幹と思っていないことを示しているようなもの。

巨大前方後型御陵を筆頭とする50近い古墳群が世界遺産に認定され、大いに沸く世情とは裏腹に、太安万侶はこの天皇の巨大前方後円墳については全く触れずじまい。その落差の大きさは特筆もの。
下巻筆頭の話としては、軽く触れてもよさそうなものだが。📖[時代区分:4] 16〜19代総ざらい

内容的には以下のようになっている。・・・
①【小見出し】天皇名+宮地…大雀命 難波之高津宮📖[16] 難波之高津宮
②【系譜】婚姻と御子…大后4柱+2柱+庶妹0柱+庶妹0柱 <大后系が天皇位継承3柱>
③【事績】大后皇子に5部制定
④【事績】大型水系土木事業
⑤【祭祀】国見
⑥【"善政"】
   (ここから大后"嫉妬"譚)
⑦【K日賣(吉備海部直の娘)
⑧【八田若郎女】  大后木國行幸⇒摂津帰還回避⇒山代川遡上⇒
   那良山口(望郷:葛城高宮)⇒筒木韓人(奴理能美)の家"山代筒木宮"
  八田部制定

⑨【女鳥王・速總別王】📖稗田阿礼の爆笑傑作
⑩【大后 反主人の總別王臣下を処刑】
   (突然話題転換)
⑪【鴈産卵譚(遊興@女嶋)📖 鴈産卵の戯歌も収載
⑫【高木枯野船譚】
⑬【クロージング】崩御年齢 干支年月日 御陵名
<継承皇子関係譚>
  📖 [50] 遠近飛鳥地名譚に注目したい

【"善政"】だが、少し学んでいる人なら、中華帝国の堯帝の質素倹約生活と瓜二つと感じるように書いている。そのための、必要十分な文体と用語で記述したと見てよかろう。
 是天皇 登高山 見四方之國
 詔之
 於國中烟不發 國皆貧窮
 故 自今至三年 悉除人民之課伇
    是以 大殿破壞悉雖雨漏都勿脩理
    以椷受其漏雨 遷避于不漏處
  後見國中 於國滿烟
  故爲 人民富 今科課伇
  是以 百姓之榮 不苦伇使
 故 稱其御世謂"聖帝世"也


その帝堯だが、儒教によって、"超"理想的な天子に祭り上げられたと言ってよかろう。帝国といっても、この時代は部族連合に過ぎないが、摂政舜の登用で、緻密な官僚機構を創出し大国化に成功したのである。
つまり、天子独裁-官僚統治こそが、国家体制のあるべき姿であるとのドグマの喧伝材料にされた訳だ。もちろん、その骨格を担うのが儒家というに過ぎぬが。
"中国4000年"という"誇り"はもっぱらココに由来する。天子独裁-官僚統治という儒教のコンセプトからすれば、王朝革命勃発や、異民族天子登場になんらの断絶感覚も生まれない。その歴史は現時点迄、綿々と続いている訳だ。・・・
実際、記載を見れば、堯・舜の治世が実現した平穏安寧とは、中華思想による統治という以上ではない。共工を幽陵に流し【⇒北狄】、驩兜を崇山に追放し【⇒南蛮】、三苗を三危に遷し【⇒西戎】、鯀を羽山に熙し【⇒東夷】、天子独裁に逆らう勢力をサラミ戦術で中原から追放することに成功したが故の安定である。順々に、敵を"的確に"定義し、連合軍を編成して殲滅させ、時間をかけて領地獲得を実現していったのである。まさに、出血極小・利益極大の儒教的合理主義そのもの。

司馬遷も、司馬貞も、そのあたりの中華帝国の風土は理解していたようで、だからこその「五帝本紀」補遺となった、と言ってもよさそう。・・・司馬遷はもちろんここらの記載は避けたのである。どの道、編纂に当たっての聞き取り先は需家になるから、書いてもよかったろうに。司馬貞はそれを知った上で追加したと見てよいだろう。はっきりと次のような主旨で注意書きが書いてあるのだから。・・・儒家支配の国家では、"真面目な"歴史は必ず堯・舜から始まり、できる限り黄帝言及を避けることになる。人類史上イノベーティブな事績はすべて黄帝代に属しているにもかかわらず。

フツーに考えれば、巨大古墳の実質的幕開けは仁徳天皇代。ただならぬ量の賦役が課されたのだから、暴動多発でもおかしくなさそう。(大林組試算を丸めれば、最大御陵造成だけでも 埴輪15,000個、敷石5,000,000個、墳丘土量1,400,000立米が投入されたことになる。)

しかし、全く逆なのだ。このことは、生産能力拡大投資路線で飛躍的な経済成長を遂げたことを意味していよう。それが、善政か悪政といった恣意的評価は無意味とは言えまいか。
この頃は📖摂津〜河内〜和泉時代大規模な灌漑・開墾も進み、生産力が飛躍的に高まったのだろう。それを支えたのが、粗鋼塊の大量輸入であるのは間違いない。直属の大量生産工房が作られ、鉄器の普及が一気に進んだ結果でもある。(おそらく在淡路島。)中華帝国凋落の隙間的時代でもあり、一大国家として交易を取り仕切きることができたからこそ実現できたと見ることもできよう。

ともあれ、この時代の特徴は、巨大御陵造営。
それは、同時に、上町台地上の難波高津宮周囲の一大都市化と、難波津と住吉津の大型化と対になっていると見てよいだろう。この宮の地は、以後建て替えや新造はあるものの、淀川・大和川の河内湖へ出入りする海船群を一望できる恒久施設として造営された筈だ。こここそ、安全な航路維持の肝たるHQsそのものだからだ。陸路的にも、住吉津へと南に大道が走っていたろうし、さらに竹内街道に繋がるのだから、まさに要衝そのもの。
海路的にも、東アジアの一大拠点として登場していくことになる。
明石海峡(五色塚) or 紀淡海峡(西陵+宇度墓)から大阪湾に入れば巨大な百舌鳥古墳群が目に入る設計。
初めから将来を見越した全体構想ありきだった可能性もあろう。・・・ここから大和へと向かえば、古市古墳が控えており、奈良盆地に進むと、南に馬見、東方正面には柳本・三輪山が見渡せ、遥か北方に佐紀古墳群が望めることになるからだ。
下巻冒頭に登場する天皇とは、正に、大倭の"聖帝"なのである。

その登場は、中央主権的統治進展とほぼ同義。その結果、后妃争奪の角逐がただならぬものになるのは致し方あるまい。それは必然的に熾烈な後継者争いにもつながっていく。

はたして太安万侶が、その辺りを意識して編纂したかは定かではないが。
ただ、中巻の冒頭でも類似表現がある。
 爾 天下太平、人民富榮。・・・
 故 稱其御世、謂所知"初國"之御眞木天皇也。

こちらは、独自文化を容認してきた共存政策を180°転換し、一気に武力平定に踏み切ったことによる安定化である。

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