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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.9] ■■■
[67]太安万侶に六歌仙的皮肉は効くか
"仮名序"の第7パラグラフを取り上げよう。・・・
  ❶"やまとうた"とは
  ❷やまとうたの"みなもと"📖歌のみなもとは古事記
  ❸うたの"ちちはは"📖大雀命のどの歌を重視するか
  ❹"うたのさま"むつ"📖太安万侶流の歌分類
  ❺"はじめ"をおもふ📖心地概念や修辞法は似合わない
  ❻"かきのもとのひとまろ"と"やまのべのあかひと"📖柿本人麻呂とは無縁か?
  ❼ちかきよに "そのな きこえたるひと"
  ❽なづけて"こきむわかしふ"
  ❾ときうつりとも うたのもじあるをや


御存じのように、"仮名序"のこの箇所の威力は半端ではない。

平安時代初期の代表的な六人が紹介されているだけに過ぎないと言うのに、現代まで、六歌仙として崇められているほど。とても歌仙と呼べるような批評がなされている訳でもないのに、人名は高校受験の暗記必須項目になっているほど。・・・
歌合の4人組(僧正遍照[桓武天皇孫 良岑宗貞]、在原業平[平城天皇皇子阿保親王の子 美男]、小野小町[仁明天皇代出仕 美女]、文屋康秀/文琳[下級官職])と、ほとんど歌が残っていない喜撰法師[隠棲僧@宇治]に百人一首撰に漏れた大友黒主[地方豪族らしい]

太安万侶時代から、ずっと後の人達だから無関係だが、だからこそ大いに参考になるというパラドックス。

「古事記」、「万葉集」がかなり焦って、口誦だった歌や詩を文字として記録すべく苦闘はしたものの、それは「酉陽雑俎」の著者が思うのと同じで、残ってくれればよいが、洞穴にでも隠しておかねば無理かもと思いながら編纂していた可能性もあろう。
「古事記」「万葉集」の時から、「古今和歌集」成立迄にはかなりの時間があるが、その間は明らかに漢文の時代だったことを忘れるべきではない。
和歌は細々とどうやら続いていた存在であると見た方が正当である。六人は、代表的歌人と言うより、そんな流れに抗して生きていたという見方をすべきだろう。
おそらく、皇族や高位官僚の話を避けているというのも、大いなる皮肉が込められていると見た方がよかろう。
この六人の特徴は、つまらぬ技巧に走ることなく、自分の思うところで謡う点にあるからだ。それは、当時としては、目立つ存在だったと言って間違いない。歌そのものが、注目を浴びるというより、それで生活できる歌人がいなかったから。

従って、六人に対する批判はあからさまで、辛辣と言うより誹謗中傷に近い言いっぷりになる。このレベルにも到達していない、六人以外の歌人に対する怒りの形をとっている訳だが、憤懣の対象は実は皇族や高位官僚の方だろう。
柿本人麻呂絶賛とは、その裏返しとも言える。

要するに、柿本人麻呂とはお抱え歌人。貴人の代理として、主人が感じていそうな"気分"を歌に表現して献ずるのが仕事の、極めて低位の官僚ということ。
これが、正真正銘の貴種が主人ならどうということはないが、士大夫クラスもそのような体質に陥っていた可能性が高い。
これはナンナンダ、と憤慨して当たり前ではなかろうか。

そんなことになってしまったのは、漢詩の世界に衣替えしたから。
中華帝国では、漢詩創作と鑑賞は、士大夫の必須の教養である。官僚になれないような人々は、宗教者等の例外を除けば、ほとんど人として見なされない社会だから、とてつもなく重要。律令国家になるということは、この仕組みを見習うことになる。
しかし、漢詩は、一般文書と違って、修辞習得は大事で韻を踏む必要もあり、厖大な詩を頭に入れておかねばならない。従って、読むことはできても、助けを借りなければそう簡単に創作などできないからだ。

・・・ここまで書くと、強調し過ぎか。

おそらく、表面的状況からすれば、公的なシーンではもっぱら漢詩で、例外はあるものの、和語の歌々は私的に使われるようになってしまったというのが、穏やかで公平な見方。
そのような形での両者併存で、両者ともにそれなりに盛んだったとも言えないこともない。
しかし、叙事詩として公的な歌謡として圧倒的な地位にあった和語の歌の地位は、政治的には零落したのは間違いない。和語も盛んだったが、それは技巧を争う歌合という遊興や、恋愛成就のための嗜好を凝らした贈答歌と返歌になってしまったのである。

そこで、一気に、心地から発する倭歌(和歌)への転換を図るべしとの主張を打ち出したということになろう。

従って、六名の歌人に対して、辛辣というか、悪口雑言的批判を浴びせかけたくなるのも当然と言えよう。
本気でこうした大転換を図るには、心地と言葉のバランスが悪い歌はどうにもならないからだ。表面的な技巧を廃し、修辞的な磨きを徹底することで、心を詠めと、一大スローガンを掲げたようなもの。

時代が違うこともあって、ここらは、太安万侶的見地とは異なる。
「古事記」が重視している点は、おそらく"事実"。修辞は漢詩の世界と考えていてもおかしくない。
もちろん、ここでの"事実"とは、学者が追求する史実との意味ではない。"迫真感"溢れる伝承か否かということ。その観点では、実は、修辞などどうでもよい。人々の琴線に触れる力強さこそが決め手だからだ。

自然に対する姿勢にしても、ある意味、素朴な感情剥き出しこそ、一番価値がある可能性も。そこには原始信仰や呪術の世界が絡んでくるから、人々の心を揺さぶるのである。

つまり、"仮名序"の自然を愛でる心地とは、「古事記」の世界を捨てよ、と同義となりかねない。素朴そのものの古代型表現を、時代に合った磨き抜かれた表現に変えよとの主張なのだ。

こうなると、古代歌謡で用いられてきた詞は、部品的語彙となって、装飾用語に変えられてしまう。その結果、歌謡の仕方は軽視され、文字化された詞での表現を徹底的に磨く方向に進むことになる。

それこそが、"仮名序"流の、倭の古からの伝統遵守である。

思うに、いずれそうなることは、太安万侶は予期していたに違いない。
だからこそ、歌の収載には力が入っているし、選定にも心配りが行き届いていると言ってよいだろう。

---❼ちかきよに "そのな きこえたるひと---
●ここに、古のことをも、歌の心をも知れる人、僅かに一人二人なりき。
しかあれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、互になむある。
かの御時より、この方、年は百年余り、世は十つぎになむ、なりにける。
古の事をも、歌をも知れる人、詠む人多からず。
今、このことを云ふに、官位高き人をば、たやすきやうなれば入れず。
●その他に、近き世に、その名聞こえたる人は、
即、【僧正遍昭】は、歌の様は得たれども、真[まこと]少なし。
例へば、絵に描ける女を見て、悪戯に心を動かすが如し。
  浅みどり 糸よりかけて 白露を
   玉にもぬける 春の柳か
  蓮葉の 濁りに染まぬ 心もて
   なにかは露を 玉とあざむく
嵯峨野にて馬より落ちて詠める、
  名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
   我落ちにきと 人に語るな
●【在原の業平】は、その心余りて、詞足らず。
萎める花の、色無くて、匂ひ残れるが如し。
  月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
   我が身ひとつは 元の身にして
  大方は 月をもめでじ これぞこの
   積れば人の 老いとなるもの
  寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば
   いやはかなにも なりまさるかな
●【文屋康秀】は、詞は巧みにて、その様身におはず。
いはば、商人の、良き衣着たらむが如し。
  吹くからに 野辺の草木の しをるれば
   むべ山風を 嵐と言ふらむ
 深草の帝の御忌に
  草深き 霞の谷に 影かくし
   照る日の暮れし 今日にやはあらぬ
●宇治山の【僧喜撰】は、詞かすかにして、始め終わり確かならず。
いはば、秋の月を見るに、暁の雲に遭へるが如し。
  わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む
   世をうぢ山と 人は云ふなり
詠める歌、多く聞こえねば、かれこれをかよはして、よく知らず。
●【小野小町】は、古の衣通姫の流なり。
あはれなるやうにて、強からず。
いはば、良き女の、悩める所あるに似たり。
強からぬは、女の歌なればなるべし。
  思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ
   夢と知りせば 覚めざらましを
  色見えで 移ろふものは 世の中の
   人の心の 花にぞありける
  わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて
   誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ
 衣通姫の歌、
  わが脊子が 来べき宵也 ささがにの
   蜘蛛のふるまひ かねてしるしも。
●【大友黒主】は、その様、卑し。
いはば、薪負へる山人の、花の蔭に休めるが如し。
  思ひ出でて 恋しき時は 初雁の
   鳴きて渡ると 人知るらめや
  鏡山 いざ立ち寄りて 見てゆかむ
   年経ぬる身は 老いやしぬると
●この他の人々、その名聞ゆる、
野辺に生降る葛の這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、
歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。


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