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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.31] ■■■
[150] 葦でなく阿斯と記載する理由
「古事記」冒頭で、イメージが湧くように記載されている唯一の神が宇摩志阿斯訶備比古遅神である。・・・
 次國稚如浮脂而 久羅下那州多陀用幣流之時 如葦牙因萌騰之物
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│┌─────────────┐<別天津神5柱>
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││││┼┼造化三神┼┼┼││││
│││└─────────┘│││
│││宇摩志阿斯訶備比古遅神│││
││└───────────┘││
││┼┼┼┼┼┼┼┼天之常立神│←守護神
│└─────────────┘│
│┌─────────────┐<天津神12柱>
││┼┼┼┼┼┼┼┼国之常立神│←守護神
││┼┼┼┼豊雲野神┼┼┼┼┼││
││┼┼┼┼対偶神五代┼┼┼┼││
│└─────────────┘@高天原
└─────────────↓─┘
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼天降し<国津神>生成

葦牙の如くということでの神名なら、ママ漢字を使えばよさそうに思うが、音表示文字に変換している。それによって、新たなイメージが被さっているとも思えず、どういうことなのだろう。
神名だから葦という文字を避けた訳でもないからだ。
 葦原色許男神/大国主神
 那陀迦神/八河江比売[大国主神系類]
 葦田宿禰

高天原から降臨する地の名称は葦原中国だし、いかにも寿ぎという名称の場合でも豊葦原之千秋長五百秋之水穂国としているというに。

太安万侶と稗田阿礼は目の付け所が確かであり、ここでも注意を喚起していると見てよいだろう。
要するに、「古事記」成立時点で、すでに、葦が倭の信仰上でこれほど重要な植物とは思われていなかったことを勘案して、"皆さん"忘却の彼方でありますな、との皮肉半分の書き方と見てよいだろう。

現代人から見ても倭の信仰ははなはだ奇異に感じる筈で、なんとなく、そんなものであり、青(人)草との観念を持っていたのはこんなところだろう、という程度の感興が精々。葦は古代に使われていたことは誰でも知ってはいるものの、それ以上でも以下でもないからだ。
しかし、日本列島は世界のリーディング文明から渡来して来た文化の"吹き溜まり"の地と考えれば全く別の情景が浮かんでくるのでは。二人の編者は議論を重ねるうちに、そのことにハタと思い至ったのではあるまいか。おそらく目から鱗だったに違いない。
 📖葦の風土(西洋) 📖葦の風土(古事記)@2015年

その切欠となったのは、二人とも言語のプロで、洞察力を磨き込んで来たからに他なるまい。官僚が誇る"深い知識"と分析能力からくる智慧とは全く別モノ。
葦の漢字の概念がいい加減なのに気付き色々と考えたと思われる。
膨大で網羅的な古書研究書でも言われていることだが、そこは<名字錯亂>の世界だからだ。しかし、どうも成長期で名称が異なっているようで、なんとはなしに整理することができないでもなさそう。植物の生育段階に応じて文字が変化すると考える訳だ。
  葭[=艸+叚("覆う")]+→蘆/芦[=艸+⾌/虍+田(甾)+皿]→葦
    【荻/おぎ系】薍→蒹[ケン]・菼[タン]・萑[カン]…"あし"と混同多
この発想は、"悪し"を"良し"との好字にするというようなものとは違い、牛肉食民族が肉の部位毎に細かく名称を定めているようなものに映る。
しかし、その様な有用性がはたして葦にあったかというと疑問だ。
  【芽】蘆筍/笋/錐と呼んで食用(但し、現代語ではアスパラガス。)
   但し、南方産不可食で北方産可食。(葦牙は立ち過ぎで非食用。芽吹き頃は蘆錐。)
  【新葉】粽(≒茅巻@倭)の巻材…蘆葉裹米
  【乾燥根茎】蘆根と呼ばれ漢方薬用
  【茎】葭簀/よしず[葭帘]/すだれ 葦蓆/むしろ

これを読むにしても。現代人の知識は上滑りなので注意した方がよい。葦は、水辺の植物で黙っていても繁茂すると思っていたりするし、湿原と曖昧な見方をするが、植物としての棲み分けがあるが、ソレがわかっている訳ではないからだ。例えば、茅葺屋根材にしても、粗放的な採取では対応できない。自然のママと誤解を呼ぶ言い方の"里山"で手入れが大仕事なのと同じで、葦も利用するならそれなりの対応が必要となる。放置すれば大繁茂し突然消滅が繰り返されるのが普通。だからこそ葦田宿禰という名称がある訳で。
ここから判断する限り、大量使用は"よしず"くらいのもの。成長段階に注目する必然性は全く見えてこない。

ただ、有用性はたいしたことはない植物にもかかわらず、倭では、極めて身近で親近感溢れる植物とされていたことになる。生活実態として、葦原は住居域だったかも知れないのだ。・・・
 <初代天皇御製歌>
 天皇其の伊須気余理比売之許に幸行し 一宿御寝坐ひき。
   其の河の佐韋河と謂ふ由者
   其の河辺に山由理草 多に在る故
   其の山由理草之名を取り 佐韋河と号也。
   山由理草之本の名は佐韋と云ひき。
 後に其の伊須気余理比売宮の内に参入りし時

 天皇御歌に曰り賜はく

  葦原の しげしき小屋に 菅畳
  いやさや敷きて 我が二人り寝し

葦原はなかなかに好イメージだったことになろう。だからといって、神聖な草とみなされていたとも思えない。この話だと、どうして"若葦"を取ったりすることを喩えにするのか気になるところではあるが。・・・
 <国譲り>
 爾欲取其建御名方~之手乞歸而取者
 如取若葦搤批 而 投離者 卽逃去


そこで、どうしても葦船の意味を考えてしまうことになる。
 <国生み>
 水蛭子 此子者入葦船而流去


だが、考えようとしたところで、葦船は、東アジアではどう見てもメジャーだったとは思えない。大木があるのに、わざわざ手間をかけて作る必要もなさそうということもあるし。あくまでもお手軽ボート程度。その存在感は薄いと見てもよいのでは。
 誰謂河廣 一葦杭之 [「詩經」国風衛風河廣]
  黄河が広大と誰が謂っているのだ。葦一束(小舟)に乗って渡れるというに。


そこで、当たり前のことだが、葦舟は船舶と言うよりは、やはり舟棺であって、それが葬儀というか異界への旅立ちということなのだろう、との結論に至ることになる。そこには何の論証も伴っていないが、ナイルの神々への信仰が篤かった葦船文明の地からはるばる流れて来た観念が極東の地に残渣的に残っているのかも知れないと考えたりする訳である。

舟棺観念自体は海人出自の倭人の慣習だったことは間違いなく、それが葦と結び付け難いのでどうしても発想が飛んでしまうことになるが、小生はそうそうおかしな見方とも言えないと睨んでいる。というのは、葦が神聖な植物とされていたとは思えないにもかかわわらず、大陸の喪制上で見ると、観念上、確固たる地位を占めていたことがわかるからである。・・・
 喪紀 共其葦事 [「周禮」地官司徒]
 …【葦以壙,禦濕之物。】


上記の断片的引用では分かりにくいが、以下ならよくわかるのでは。(一部異なる書から小生が補筆。)
お棺は腐敗しにくい材を用いることになる。その観点での最高級品は加工困難な黒檀紫檀か、本邦産の高野槇であろうが、大陸では日本の種とは異なるが桐ということになる。その棺の保護用外囲いである槨に葦を使うのである。・・・ 
 命群臣曰:
 「吾百世之後 葬我會稽之山
  葦槨桐棺 穿壙七尺 (上無漏泄) 下無即水
  墳高三尺 土階三等」 
[「吳越春秋」越王無余外傳]
殷代は竪穴に頑丈な木製槨が定番。王朝による変化はあるものの、儒教が根底にある帝国であるから葬制は厳格で、地位によって細かな規定が定められていた筈である。倭の制度ははっきりしないが、魏の時代、石棺はあるが槨が無いとみられていた。
実は葦を外郭ではなく、葦舟的観念で、薦のようにして、棺覆いにしていた可能性もあるのでは。考古学上で例があればよいのだが。
(目立つ草本であり、平均16節、稈高1〜2m。中国種の稈高はほぼ倍。何れも、湿地帯での繁殖能力は格段に高く、すぐに大群落を形成する。そこが、再生の力頂戴観念に繋がっているのかも知れない。そうそう、土盛に卓越した人物の頭/脳髄を埋葬し葦で覆っている形象が蘆という漢字の原義のようにも思えるし。)

・・・う〜む。"葬"のイメージがあってもおかしくはない、と多少は合点がいった。

触れたことがあるが、古代、一面の葦の中洲に神と貴人が座すお社があったかもしれないし、葦を敷き詰めた島が浮いていてもおかしくないのでは。神世七代もそう思って読むとよいのではあるまいか。

葦は喪の象徴であるが、それはあくまでも異界との繋がりであって、再生の過程あるいは楽園渡航への一断面ということになろう。青(人)草を束ねる神の名称とする場合は、誕生に意義があるので、漢字表記としては葭とすべきで、少なくとも蘆にしなくてはならない。

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