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■■■ 「古事記」解釈 [2021.6.25] ■■■
[175] 三国の理念重視度が見えて来る
【天竺】では、人生の意味は、カーマ(性愛)+ダルマ(聖法)+アルタ(実利)とされていたとして、男女関係にについて三国比較してみたので📖、次も。・・・

日本で使われる用語のダルマは、普通は、釈尊が語った仏法を意味するので、仏教用語と考えがちだが、古代から使われている言葉。それでは"法"とは何かとなるが、サンスクリット語はもともと多義なので、素人にはよくわからない。
とは言え、宇宙を成り立たせる秩序の原理[≒真理(法則)]とのイメージが出来上がっている。多分、それは当たっているのだろうが、注意を払う必要があろう。原理だから普遍的と言うことになるが、あくまでも自分の住む社会の眼でみた原理に過ぎないからだ。

すでに述べてきたように、インドは、叙事詩ベースの信仰が基盤。と言っても、一本化された聖典とは違い、様々なバージョンがあり、口誦伝承なので異伝の宝庫状態。そうなるのは、"生業""クラス"にフラグメント化している信仰だからだ。信仰者は、自分が属する小さなコミュニテエィに通用する法則にしか関心がなく、実に狭い社会だが、それが宇宙の原理としても通用するという、部外者には極めてわかりにくい社会なのである。

従って、ダルマとは、自分の身に直接かかわってくる特定社会階層="生業""クラス"における生活規範を意味すると見るのがよさげ。

もちろん、叙事詩はそれぞれ異なると言っても、類似部分が多いから、どの階層にも通用しそうな法則もあるが、それは結果論でしかない。(生きている神話だから、口誦内容は、聞き手に合わせて日々変化して行く。)・・・"クラス"毎にダルマは異なって当然なのだ。
"クラス"横断的共通性が初めから存在するのは、例えば、人生段階(年齢と生業社会内での役割)といった概念だけ。その中身が信仰者の生き方を規制することになるが、これをすべての"クラス"に通用するようにまとめたところで信仰者の興味をひくことになる訳がなかろう。
それに、こうした内容は、言ってみれば、人生に於ける掟のようなものだから、王とか部族長が任意に設定できる訳もなく、過去の経緯を踏まえて、当該集団に合うように試行錯誤的に決めるしかあるまい。ダルマとは、そのような掟そのものか、それを設定する際のガイドラインと考えればよいのでは。
日本人の眼からすると、かなり理屈っぽい風土と言えよう。おそらく、原理に基づいた理屈を欠くとコミュニケーションが難しい社会なのだろう。
それは家族内でも言えそう。家長は存在しているものの、自由に采配できる権利を持っている訳ではないから、兄弟や親類を理屈で説得させる能力が問われる。そのような日常生活であると、叙事詩に基づく祭祀専門の"生業""クラス"に属す人々が尊敬されるのは極く自然とも言えよう。

【震旦】も、法は重視するが、宇宙の原理と言えるかはなんとも。天帝に天子として承認され、地上支配権を得たとのお墨付き以上の考えはなさそうに思えるからだ。
もちろん、能力不足の皇帝と見なされれば革命勃発が推奨される訳だが。

この"天命"観念を人民に強権的にでも受け入れさせれば社会安定との、徹底鉄毘合理主義そのもの。部族乱立社会を国家にまとめ上げるには、これしか無いとの洞察に基づく思想であろう。部族社会を解体し、そこで支配能力を有していた血族を天帝が任命した氏族化することで、ヒエラルキー社会を作るという強烈な意志が見える。儒教の宗族第一主義はこのヒエラルキーを造る上での不可欠な基盤と言えよう。

当然ながら、この様な天下構想に対して、齟齬をきたす信仰は邪魔者扱いされてしまう。天子の統治する国であるとの思想を100%受け入れ、独自の思想性をすべて消し去った神だけが容認される。

以上まとめれば、・・・
【天竺】では、"クラス"毎に理念を模索することになる。相互依存の社会なので、それらを集め抽象化されると、普遍的な原理が存在しているように見える訳だ。
一方、【震旦】では、あくまでも帝国ありき。従って、原理といっても、その構想のもとでの掟以上ではない。

と言うことで、道教は理念を追求する宗教では無いと見た方がよい。個人の精神的自由を重視する宗教に映ったりもするが、帝国ありきの信仰を捨てる訳では無いから、自己矛盾である。理念無しだから、矛盾したところで、何の問題も無い。
要するに、帝国構想実現と維持のための宗教であり、バラバラな土着信仰を寄せ集め、天帝が統括するエラルキーに組み込んだに過ぎない。従って、帝国統治機構と齟齬をきたさない範囲での、信仰者の願望に応える呪術を提供するに留まらざるを得まい。( 例えば、殺人は、その報いが甚大だから、得策にならず避けるべしという、功利的で合理主義的理屈が通用することになる。ご利益は、奉納の見返りとされ、神とのバーター取引と化す。)
しかしながら、儒教的合理主義は、土着信仰の根とは無縁なので、この宗教は矛盾を孕んでいる。信仰者に生活上の不満が高まれば、即、反皇帝思想が表面化する可能性は少なくない。しかし、それは新天子待望の一過性現象で終わるしかなかろう。

このように考えると、【本朝】の原理はどうなっているのか、えらく気になってくる。

と言うか、仏教を取り入れた国であるにもかかわらず、「古事記」を読む限り、【天竺】では当たり前のように追求されている理念には、無関心としか思えないからだ。
しかも、儒教道徳が統治機構運営に使われているにもかかわらず、【震旦】のような皇帝独裁-官僚管理の社会を基本としているとも言い難い。
と言って、独自の理念らしきものもさっぱり感じられないので、愕然とさせられるのである。

太安万侶が序文で、ほぼ道教国であると書いたのは、その点を突いているのかも知れない。日本での仏教は大胆に変貌を遂げた宗教であり、同様に、儒教は核である信仰部分を削除されて導入されており、土着信仰はこの両者を支える役割を担うようになったとも言えるからだ。
だが、【天竺】型と【震旦】型を兼ねた理念追求などできる訳もなく、その辺りは曖昧にしながらも、部族信仰でバラバラにならないように工夫して統一王朝をつくろうと工夫した結果が、理念追求を表に出さず曖昧な重層化ですますという姿勢になったということか。

考えをまとめてみよう。

【天竺】型とは、"生業"コミュニティでの法の追求だが、【震旦】型は、宗族コミュニティの法の追求となる。これと対比すれば、【本朝】型とは、おそらく、地縁コミュニティの法の追求なろう。
こうなると、原理は掲げにくかろう。理念を示す必要に迫られたら、居住環境信仰を抽象化させる以外になさそうだ。最高権力者とはその様な信仰のシンボルにならざるを得ず、王権とか神権という普遍的な統治概念とは次元が異なる存在になってしまう。

考えて見れば、それこそが倭国の一番の特徴と言うべきか。
是々非々で臨み、理屈は敬遠。意思決定権も曖昧な設定で結構となる。その一方で、独裁志向の流れが生まれれば、それはそれで構わぬとなる。そんな流れが拙いことがわかれば、なんとはなしに消え失せるだろうとの希望的観測で十分満足することになろう。

「古事記」では、"全権を握る"という状況がさっぱり見えてこない。
権力構造を一意的に描くことはできかねるといった調子での記載なのだ。
このため、どのように意思決定されたのかよくわからない。つまり、現代社会感覚からすれば、理念が見えてこないのである。一般論でしかないが、理念なき社会はそのうち霧散するもの。にもかかわらず、理念を追求する姿勢が伺えない社会が永続的に存在しているのだ。
従って、そこにはなんらかの法が存在している筈となるが、それを言い当てることが極めて難しい。なんとでも言えそうだからだ。融通無碍ということかも知れぬが。・・・
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 於是 天~諸命 以詔 伊邪那岐命伊邪那美命二柱~
 修理固成是多陀用幣流之國

  最高権力者不在かも。
  諸命とは、総意の意味だろうか。
  国造り開始の意義不明。…理念は不要。
  従って、選任過程も不詳。
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 爾 天照大御~ 高木~ 之命以詔 太子-正勝吾勝勝速日天忍穗耳命
 <答>
 子生出 此子應降也

  最高権力者は曖昧。・・・2神。
  詔に対し、諾ではなく否。・・・断定的。
  子が誕生。任を継承させる。・・・理屈不明。
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 八百萬~ 於天安之河原 ~集集 而
 高御産巣日~之子 思金~令思

  最高位者が反逆行為放置。・・・権力行使せず。
  大問題発生で総員集合。・・・部族長大会合的。
  祭祀では皆で楽しく騒ぐ。・・・貢物の見返り期待無し。

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