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■■■ 「古事記」解釈 [2021.8.30] ■■■
[241]太安万侶的道教観を探る
🛑太安万侶は処世術にも優れているのは間違いない。
多家出身でそれなりの地位にあると言っても、昇殿できる官位が約束できる訳でもなかろう。
おそらく道教についての知識が深いということで認められ、五位への特進が可能になったのだろう。そうでなければ、多安万侶という無名官僚で終わっておかしくなさそう。

序文の漢文の解釈をすればわかる通り、まさに道教一色での記載なのだから、そう解釈するのが自然であろう。

本文から読み始めてその後で序文に触れるので、倭文と漢文の違いもあり、その落差の大きさに驚かされることになる。おそらく、本文もあるていど道教的な編集がなされたと見てよさそうだが、モチーフに似た点を捜せばいくらでも見つかることになるが、そのような見方を始めれば、ギリシアとの類似性濃厚という話とほとんどかわらなくなってしまう。

それより、仏教の扱いが特異である点と、外交についての扱いが偏っている点について考えた方が、「古事記」の編纂方針理解に繋がるのではなかろうか。

なかでも、仏教について触れない姿勢は確固たるものがあり、なかなか面白い。
と言うのは、太安万侶が活動を始めた頃、すでに仏教の地位は公的に確立していたからだ。・・・
 持統天皇六年(692年)・・・有敕:「令計天下諸寺。」
 凡五百四十五寺,寺別施入燈分稻一千束。
 大官大寺,資財奴婢,種種施入。
 改舊洪鐘,加調銅數千斤,新鑄之。
 [「扶桑略記」]
ただ、この時期は下記に示すように、仏教の浸透は著しいものの、薄葬化に則った円墳や山墳ではなく、道教的な🛑八角墳御陵が続いていた。男系必須の儒教的でなく、女帝が多いのも特徴。(中華帝国史上唯一の女帝で、百済・高句麗を滅ぼした、仏先道後の武則天(在位:690-705年)の頃。)

---[32]崇峻天皇…□/🛑赤坂天王山古墳(倉梯岡陵)@桜井倉橋
[33]推古天皇(在位:592-628年)…山田高塚古墳(河内 科長大稜)
---[34]舒明天皇…🛑段ノ塚古墳@桜井
 <639年百済大寺造営詔>
[35]皇極天皇(在位:642-645年)
   /[37]斉明天皇(在位:655-661年)…🛑岩屋山古墳 or 🛑牽牛子塚古墳@明日香
---[36]孝徳天皇…大阪磯長陵@河内太子
 <646年薄葬令>
---[38]天智天皇…🛑御廟野古墳@山科
---[39]弘文天皇…長等山前陵@大津御陵
---[40]天武天皇…🛑野口王墓古墳(合葬)@明日香
[41]持統天皇(在位:690-697年)…🛑野口王墓古墳(合葬)
     草壁皇子…🛑束明神古墳@真弓丘
 <692年令計天下諸寺(545寺)>
---[42]文武…🛑中尾山古墳@明日香
   (夫人藤原宮子[藤原不比等長女])…佐保山西陵
 <701年大宝律令完成>
 <704年太安万侶従五位下叙爵>
[43]元明天皇(在位:707-715年)…奈保山東陵@奈良阪
 <712年「古事記」上奏>
[44]元正天皇(在位:715-724年)…奈保山西陵@奈良阪
 <723年太安万侶没>
---[45]聖武天皇…法蓮北畑古墳(佐保山南陵)@奈良法蓮
   (光明皇后)…佐保山東陵
[46]孝謙天皇(在位:749-758年)
    /[48]称徳天皇(在位:764-770年)…Ω佐紀高塚古墳(高野陵)@奈良山陵
---[47]淳仁天皇…淡路陵@南あわじ賀集<流刑地>
---[49]光仁天皇…田原東陵@奈良日笠
---[50]桓武天皇…柏原陵(桃山陵墓地内<平安京/京都>)

「今昔物語集」を読んでいると、仏教は始皇にケンモホロロにされたと記載されているが([巻六#_1] 震旦秦始皇時天竺僧渡語)、当たり前である。
天の神の皇の系譜を引き継いで、かつ秦の始王であると自称したのは自明だからだ。📖始皇帝@今昔物語集の由来
(ついでながら、インテリ読者対象の書であるだけに、漢元帝も、皇帝とは呼ばず天皇としている。流石、慧眼と言えよう。)📖王昭君@今昔物語集の由来
仏教は、天の神と連なる王権を否定しかねないから、皇帝に布教許可を願い出ることは本来的には無理筋。
しかし、仏教は、土着信仰を曼荼羅的にすべて取り込むことができるから、皇帝の神権を認めるなら、国家統治上価値ある宗教である。ただそれ以上に魅力的なのは、国際交易基盤の提供と西域文化の導入という実利をもたらすことができる点。インターナショナルな活動ができる人材を擁する唯一の組織だったということでもあろう。
そこで、一気に布教に成功したとみることもできよう。

見方によっては、仏教が、中華帝国の地場信仰をまとめあげる役割を担ったとも言えよう。ただ、バラバラで呪術秘儀が核であるから、もともと教義も定かでなかった信仰も教義化することになるので、輪廻という法理を根本にしている仏教とは全く異なる信仰であることが明確になっていくから、仏教は土着に飲み込まれざるを得まい。
ただ、その前に、両者ともに、個人精神統制宗教たる儒教とは相容れないことを自覚することになるだろう。しかし、それは中華帝国の自己否定になってしまうので、宗教としては不安定なものとならざるを得ず、個々人の祈願成就の役割を担う神々の集合体として存続するしかないだろう。

この状況を、太安万侶の目から見れば、仏教とは地場信仰の上に乗っかった渡来信仰ということになろう。従って、中華帝国では、融通無碍な道教にとりこまれるしかあるまいと見ていた可能性が高い。
当然ながら、それは本朝でも言えることになろう。📖神祇による仏教取り込みを予想したのでは
結果、中華帝国の予測は図星だったが、本朝の方は見事に外れた訳だ。・・・それは当然かも。

道教教団が本朝に存在していたとは思えないので、太安万侶が序文で示した見方とは、本朝神祇=道教ということになろう。ところが、本文ではほぼ本朝神祇≠道教としか思えない。このことは、無理矢理に唐朝模倣に走ったことを示しているようなもの。
実際、八角墳御陵も34〜42代天皇の例外的期間でしかなかったのである。

太安万侶は知識人ではあるが、宗教家・祭祀者ではないから、「古事記」の序文と本文の差異は何らかの動きを示唆している可能性もあろう。序文で御紫宸(儒教では卑色。)という用語が使われているところからみて、八角墳御陵時代、唐朝の道先仏後体制に倣って、本朝神祇の道教的衣替えがなされた可能性さえあり得よう。

「古事記」では、遣隋使等の外交について全く触れようとしないし、半島に於ける任那についてさえ一言も言及せずなので、この辺りの経緯は皆目わからぬ状態だが、それもココに関係しているようにも思えてくる。
文化は地理的にすぐお隣の半島経由での伝来ということになっているが、渡来といっても、書は漢文だし、有能な渡来者の言語も又漢語と見て間違いない。半島の文化が倭に入ったという見方は誤解も甚だしい。半島の独自信仰流入は記載されており、仏教伝来が半島経由か否かとか、半島迂回の直接的中華帝国接触が始まったという話にほとんど意味は無いと考えてもおかしくなかろう。そのようなことに拘るのは、亡命百済王家位のものでは。その面子を考慮して、そんなことを書く気もせずだろう。

そもそも、道士が来訪していないとしか思えないのに、序文の指摘では、明らかに本朝に道教が入っていることになる。道教国と呼んでもよさそうな表現になっている。
そうなると、常識的には、道教を伝えたのは仏僧が中心だったことになるが、異教を布教する訳もなく、たちどころに常識に反することになってしまう。
しかし、それが実態というのが太安万侶の主張ということになろう。

換言すれば、太安万侶は初めから、本朝の仏教は大陸の仏教とは異なることを直観的に見抜いていたことになろう。
要するに、仏僧と共に入って来た道教とは、漢訳仏教経典で磨かれた様々な呪術的祭祀信仰だったのだろう。

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