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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.20] ■■■
[323] [私説]24・29代御陵非記載の意味
御陵地の意味を探ってきたが、残っているのは、26〜29代。26代崩御で皇継無しとなった、ゴタゴタ期である。

系譜情報以外なにも示しないという徹底方針が貫かれており、国史プロジェクトの見解とは相反した見方であることを示していると考えた方がよさそう。
無記載もあるが、元の古市に戻ったような御陵もあるところから、脱御陵を意味していそう。しかし、肝心な28-29代の記載を避けているのだから、ここらの意味を考えヨというメッセージが籠められているということか。
だが、そう言われても、どう読むべきかは五里霧中の世界。時間をかけて考え抜けば見えてくるようなものではない。・・・

奈良盆地外竹内街道 📖[私説]小治田宮への道間の角逐
 ○磯長谷…33, _, 31, 30
   《32》寺川上流宮地近辺
33 戊子628年崩御 治世37年間
32 壬子592年崩御 治世_4年間
31 丁未587年崩御 治世_3年間
30 甲辰584年崩御 治世14年間

不明瞭
 □無記載…29, 28
   《27古市》河内古市高屋村
   《26高槻/摂津国嶋上》三島之藍[≒今城塚古墳]
29
28
27 乙卯535年崩御
26 丁未527年崩御

奈良盆地内葛城📖片崗御陵時代は激動期かも
 ○片崗…25, 23, _________, 7
   《25》片崗之石坏崗
   《23》片崗之石坏崗上
   《_7片岡馬坂上
 □無記載…24 <↑この代から事績記載無し>
 □無記載…22
25 治世_8年間
24
23 治世_8年間
22

 ↑
21 己巳489年崩御
奈良盆地外海側
 ○古市…21, _, 19, ____, 15, 14
 ○百舌鳥…___, 18, 17, 16
奈良盆地内東山麓
 ○巻向柳本…_________, 12, _, 10
奈良盆地内西北
 ○佐紀…_, 20, ________13, _, 11, _, 9
   《20》菅原伏見 📖[私説]皇統を示す地から外された御陵例
   《13沙紀之多他那美
   《11菅原之御立野中
   《_9伊邪河之坂上

ここは太安万侶渾身の記載部分と言えるかも知れない。

哀本杼命(品太王五世孫@近淡海國)/[26]継体天皇は出自が記載されてはいるが、5代系譜は非記載なのだから。すでに、書いた通り、上宮系の記録に残っているからで、情報が無かった訳ではないのである。仏教系は律儀に5代を辿った訳であるが、実は、それにたいした意味がある訳ではないと示したしか思えない。
つまり、"品太王⇒・・・⇒哀本杼命"という皇統の見方は、国史プロジェクト的な後世ルールに基付く理屈であって、朝廷全般に於ける直系感覚とは違うと考えざるを得ない。
要するに、市辺之忍歯王-[24]代天皇-手白髮命-[29]代天皇については、御陵で行われるべき魂祭祀が無いので記載しないとの方針なのでは。23代御陵は記載しているのだから、後継の兄と遺骨が宮に届けられた父の御陵は不明というのは腑に落ちない。呼び寄せた縁戚が即位とされているが、実体は24代皇女が皇嗣で、さらにそれを受け継ぐのが29代となる訳で、ここらも同様に御陵については記載せずということになる。
御陵名は単なる情報ではなく、皇統の正統性を示すものとなっているから、実際の皇統はこちらだが、それは朝廷の公式な系図とは異なるから、このように書かざるを得ないということではなかろうか。・・・
 品陀和気命/大鞆和気命/[15]応神天皇
  大雀命/[16]仁徳天皇
   伊邪本和氣命/[17]履中天皇
    市辺之忍歯王…御陵:蚊屋野之東山@近江国→改葬
     意祁命/[24]仁賢天皇
      手白髮命/[26]皇后…御陵非記載
       天國押波流岐廣庭命/[29]欽明天皇
        沼名倉太玉敷命/[30]敏達天皇
         忍坂日子人太子/麻呂古王[34]天皇@岡本宮
難しく考える必要などさらさらなく、国史プロジェクトによる天皇撰に漏れた市辺之忍歯王と手白髮郎女を天皇扱いにして、女系を認めればどうという問題は無い。そのような見方が生まれたのは、天武天皇以後のこと。実際のところは判然としない。

小生は、28代の御陵は、26-27代同様に盆地外海側と思うが、皇統という意味では、29代が皇嗣祭祀を行わなかったということで記載を見送ったのではあるまいか。
29代は4皇子・皇女を即位させており、御陵を記載してもよさそうに思うが、場所的に竹内街道の磯長谷になりそうなものだが、そうでないので、上記の直系系譜を目立たせるために記載を避けたように思える。太安万侶が天國押波流岐廣庭命の情報を入手していない筈はなかろうと踏んでのこと。

ちなみに、江戸期の見分比定を参考にしながら、国史シナリオから大きく外れないように御陵を判定すると、以下のようになるようだ。頑強な主張や、大御所の横車は避けられないだろうから、妥協の産物の可能性があるし、不明検討中とする訳にもいかないから、無理筋もあり得そう。ともあれ、御陵地は転々。
《宮内庁治定御陵》
  河内坂門原陵([22]清寧天皇)
     …西浦白髪山古墳@羽曳野西浦)
  埴生坂本陵([24]仁賢天皇)
     …野中ボケ山古墳@藤井寺市青山
  手白香皇女衾田陵
     …西殿塚古墳@天理中山
  古市高屋丘陵([27]安閑天皇+[皇后]/[24]春日山田皇女)
     …高屋築山古墳@羽曳野古市
  身狹桃花鳥坂上陵([28]宣化天皇+[皇后]橘仲皇女)
     …鳥屋ミサンザイ古墳@橿原鳥屋
  檜隈坂合陵([29]欽明天皇)
     …平田梅山古墳@明日香平田
  押坂内陵([34]舒明天皇)
     …段ノ塚古墳@桜井忍阪

押坂彦人大兄皇子は天皇扱いはできないが、現在の皇室の男系直系祖の墓所ということになる。「延喜式」に記載がある。
  成相墓@大和国廣瀬郡城戸郷
     …牧野古墳(円:60m)@広陵


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