→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.11] ■■■
[375]王朝史発想欠落の理由
倭国古代史としての王朝交替説(葛城前王朝⇒天孫初王朝@橿原⇒崇神/イリ王朝@三輪⇒応神/ワケ王朝@河内⇒継体王朝@越前)は結構人気がありそうだ。
細かく見れば色々とありそうだが、イリ・ワケという大王名は、峻別するための語彙であろうし、皇統譜上、程度問題ではあるものの、血縁関係が異なることが示されているから、そう言えそうに思えてくることもあろう。
ただ、情報は余りに少なく、単なる反万世一系的な主張を感じさせないでもないから、議論しにくい領域である。
そのため、どうしても"王朝"用語の概念が曖昧になり易い。ここらは、特に注意したほうがよさそう。

皇統断絶の危機に直面すれば、なんとしても皇嗣を見つけて即位させざるを得ない訳で、一番混乱無きように選ばれるのだろうが、皇族と中央の臣下勢力との関連を断ち切ったからこそ発生したのだから、地方勢力連合が推戴する以外に手はないが、だからと言ってそれがスムースに進む道理が無かろう。従って、新王朝と呼ぶのは通俗的にはわかるものの、権力移行発生とは言い難いのでは。
そもそも、直系継承といっても、各勢力に担がれた兄弟間の継承権簒奪騒動はいくらでもあり、両者の質的差異は明確に示すことはできないからである。それに、直系皇子が成熟していると見なせる年齢に達していないと、非直系継承を選ぶことになろう。そうなれば、その非直系の皇子も直系扱いされることになり、もともとの直系との権力闘争勃発は避けがたいものがあろう。これらの皇統争いを王朝転換と呼ぶと、かなり頻繁に生じていることになり、そのことで政策が180度変わる新政権樹立なら別だが、そうでなければ特別視するようなものではなくなってしまう。
従って、王朝転換の定義はそう簡単なものではない。

日本の歴史は宮の場所で区分されるが、その地名自体には論理も概念もついていない。そのため情緒に傾きがちで、歴史観形成には向かない。
しかし、それを全員に暗記させることで、民族の統一観を醸成させているのは間違いなく、よくできた慣習である。
・・・その発祥は、「古事記」である。

ここらの体質は、「古事記」成立のずっと以前にできあがっていることが示されているからだ。宮と御陵の場所は明らかに、その時点での政治勢力のパワーバランスを示唆しており、その政治の中心地が移転すれば、政策大転換や政治体制一変を意味していることを、「古事記」は、はっきりと伝えてくれたのである。

但し、それは中華帝国に於ける王朝交代のような転換を意味している訳ではあるまい。
儒教の中華帝国と違い、倭国は、革命否定の"王朝交代無し"と云う観念形成に力を入れ続けて来たからだ。なんといっても目に見える大きな違いは、皇女の系譜であろう。所謂、政治的な降嫁が見当たらないのである。そのため、儒教では絶対禁忌の宗族婚どころか、皇族内近親婚が推奨されている位だ。皇女は、おそらく独身で巫女の役割を務めることが多かったと思われる。(後世は尼僧制度がそれを支えたのだろう。)

太安万侶は中華帝国と倭国のこうした違いを示すことに相当に神経を使っていそう。
その気分はよくわかる。

時代は、"文字による統治"化の真っ最中だからだ。
中華帝国から見れば、文字を下賜することで、帝国圏内属国化の第一歩を踏み出せたことになる。次の打ち手は、帝国官僚が競い合って権謀術数を駆使して、傀儡王朝樹立か、武力による服属王朝化となろう。
この仕組みこそが、帝国繁栄を図る儒教国家の基本ドグマである。半島を見れば歴然としているように、倭国も属国化の道を選択したことになる。

ところが、そうは問屋が卸さぬというのが「古事記」の記載であろう。

「一系皇統で王朝転換無し。」となれば、国外干渉は極めて難しくなるからだ。

このことは、初代天皇即位以前はその前段階と規定されることになるから、王朝転換があってもおかしくはないということになろう。和辻哲郎的な感覚から言えば、九州王朝から大和王朝への変遷があったということになろう。

 (C) 2022 RandDManagement.com  →HOME