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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.3] ■■■
🪞[848]参考「水鏡」[序・初代〜16代天皇]
 【序】
つつしむべき年にて、過ぎにし二月の初午の日、龍盖寺へまうで侍りて、やがてそれより、泊Pに、たそがれの程に、參り着きたりしに、年の積もりには、いたく苦しう覺えて、師のもとに、しばし休み侍りし程に、うちまどろまれにけり。
初夜の鐘の聲におどろかれて、御前に參りて通夜し侍りしに、世の中うちしづまる程に、修行者の三十四五などにやなるらむと見えしが、經をいと尊く讀むあり。
傍近くゐたれば
 「いかなる人の、いづこより參り給へるぞ。御經などの承らまほしからむには、尋ね奉らむ。」
と云ふに、この修行者言うやう、
 「いづこと定めたる所も侍らず。すこしものの心つきて後、この十餘年、世のなりまかるさまの心とどむべくも見え侍らねば、人まねに、もし後世や助かるとて、かやうにまどひありき侍るなり。」
と云へば、
 「誠にかしこく思しとりたる事にこそ。誰もさすがにこの理は思へどもまことしく思ひ立たぬこそおろかに侍るめれ。この尼、今まで世に侍るは希有の事なり。今日明日とも知らず、今年七十三になむなり侍る。三十三を過ぎがたく、相人なども申しあひたりしかば、岡寺は厄を轉じ給ふと承りて、詣で初めしより、つつしみの年毎に、二月の初午の日、參りつる験にこそ、今まで世にはべれば、今年つつしむべき年にて參りつる身ながらもをかしく、今は何の命かは惜しかるべきと思ひながら、年比參り習ひて侍るにあはせて、やがてこの御寺へも參らむと思ひ立ちてなむ。今この御寺には偏に後世助かり侍らむ善知識に会はさせ給へと申し參れるに、かくいさぎよく後世思す人に会ひ奉りぬるは、しかるべきにこそ。世を背く人も、おのづから物言ひふれ給ふ人なきは、たよりなかるべき事なり。この尼も偏に子とも思ひ奉らむ。又必ず善知識となり給へ。」
と云へば、
修行者
 「いとうれしきことなり。今日よりはさこそョみ申し侍らめ。」
とて、
又、經など讀みてぞさしはてし程に、
 「後夜うち過ぎて、われも人もねぶられしかば、修行しありき給ひけむ物がたりしたまへ。目をもさまし侍らむ。大峰葛城などには尊き事にも又おそろしき事にもあひ侍るなるは、いかなる事か侍りし。」
と問へば、
 「年比はべちにさる事もなかりしに、一昨年の秋、葛城にてこそあさましき事に逢ひ侍りたりしか。常よりも、心すみて哀におぼえて經を誦し奉りしに、谷の方より人のけしきのしてまうでこしかばいと物恐しくおぼえながら經を誦し奉りしに、九月上の十日ごろの事にて月の入方になり侍りしほどに、ほのかにそのかたちを見れば、翁のすがたしたるもののあさましげに瘠せ神さびたるが藤の皮をあみて衣とし竹の杖をつきたるがきたれるなりけり。
やうやう傍へ來寄りて言うふやう、
≪御經のいとたふとく聞えつればまうできたる。≫
と云ふ。
物恐しくおぼえ侍りしかども、鬼魅などの姿にもあらざりしかば、仙人といふものにやと思ひてかく申すほどに、八の卷のすゑつかたなりしかば、また一部を誦して聞かせ侍りしかば、
この仙人よろこびて、
≪修行し給ふ人おほくおはせど、まことしく佛道を心にかけ給ふやらむと見奉るが尊くおぼえ侍るなり。いかなる事にて心を起しそめ給へりしぞ。≫
と問ひしかば、
さきに申しつるやうに申ししを仙人聞きて
≪いとかしこきことなり。大かたは今の世をはかなく見うとみたまひていにしへはかくしもあらざりけむとあさくおぼすまじ。すべて三界は厭ふべき事なりとぞおぼすべき。このめのまへの世のありさまはをりに從ひてともかくもなりまかるなり。いにしへをほめ今をそしるべきにあらず。神代よりこの葛城吉野山などをすみかとして時々はかたちを隱して都のありさまも諸國に至るまで見聞きて過ぎ侍りき。よしなき事どもに侍れども御經を承りぬるよろこびに偏に目の前のことばかりをのみそしる心おはして、いにしへはかくしもなかりけむなどおぼす。一すぢなる心のおはする方をも申し聞かせば、一分の執心をもうしなひ奉りなば佛道にすゝみ給ふ方ともなどかならざらむ。神の世より見侍りし事おろおろ申し侍らむ。≫
と言へば、
≪いみじくうれしく侍るべき事なり。生年二十などまでは男のまねかたにて世に立ちまじらひ侍りしかども、はかばかしく昔の事考へ見ることもなかりき。唯遊びたはぶれにて夜をあかし日をくらしてのみ過ぎ侍りしに、近頃の事などを人のかたり傳へ申すを聞くに、この世の中はいかにかくはなりまかるやらむと、事にふれて哀にのみおぼえてかゝる道に入りにたれば一かたになべての世をそしる心ある罪もさだめて侍らむ。いでのたまはせよ。うけたまはらむ≫
と言ふに、
仙人の云はく、
≪さてはこの世のありさまのみならず、內典の方などもうとくこそはおはすらめ。はしはしを申さむ。生死は車の輪の如くにしてはじまりてはをはり終りてははじまり、いつをはじめ、いつををはりといふ事あるべからず。まづ刧のありさまを申して世のなりゆくさまもかくぞかしと知らせ奉らむ。人の命の八萬歳ありしが、百年といふに一年の命のつゞまりつゞまりして十歳になるを、一の小刧とは申すなり。さて十歳よりまた百年に一年の命をそへて八萬歳になりぬ。これをも一の小刧と申す。この二の小刧をあはせて一の中刧とは申すなり。さて世の初まる時をば成刧と申して、この中刧と申しつる程を二十過すなり。
その初めの一刧の始の程は、つやつやと世の中なくて、空の如くにてありしに、山河など出で来て、かく世間の出で来るなり。今十九刧には、極光淨といふ天より、一人の天人生れて大梵王となる。その後、次第にやうやう下ざまに生れて、次に人生れ、餓鬼畜生出で来て、果てに地獄は出で来るなり。かくて成刧廿刧は究まりぬ。世間も有情も成り定まるによりて成刧とは申すなり。
次に住刧と申して、又、二十の中刧のほどを過すなり。但し、初の一刧は、命、次第に劣りのみして揩骼魔ネし。されば住刧の始めの人、命は八萬歳にはあらで、無量歳にて、それより十歳までなるなり。されどもほどの經ることは一の中刧のほどなり。さて第二の刧より十九の刧までさきに申しつるやうに、八萬歳より十歳になり十歳より八萬歳になり、刧ごとにかく侍るなり。さて第二十の刧は、十歳より八萬歳まで揩驍アとのみありて、劣ることなし。これも過ぐる程は一の中刧なり。
これは天より地獄まで、成刧に出で来調ほりて、有情のある程なり。さて住刧とは申すなり。次に壞刧と申して、この程、又、二十の中刧の程なり。初の十九刧には、地獄より始めて有情みな失せぬ。この失すると申すは、いづこともなく失せぬるにはあらず。しかるべくして天上へ生るるなり。但し地獄の業なほ尽きぬ衆生をば、こと三千界の地獄へしばし移しやるなり。かくて第二十の刧に火出できて、しも風輪とて、風吹きはりたる所の上より梵天まで、山川も何もかもなく焼け失せぬ。かく破れぬれば壞刧とは申すなり。次に空刧と申して又二十の中刧の程を世の中になにもなくて大空の如くにて過ぐるなり。空しければ、空刧とは申すなり。この成住壞空の四刧を経るほどは、八十の中刧を過ぐしつるぞかし。これを一の大刧とは申すなり。かくて終りてはまた始まり終りてはまた始まりして、いつを限といふ事なし。かくの如くして、水火風災などあるべし。事長ければ申さず。
この住刧と申しつるに、佛は世にいで給ふなり。その中に、人の命まさりざまなる折は、樂み奢れる心のみありて、ヘに叶ふまじければ出で給はず。命やうやう落ちつ方に。物のあはれをも知り、ヘ事にも叶ひぬべきほどを見計ひて出で給ふなり。この住刧にとりて、初め八刧には佛出で給はず、第九の減刧に七佛の出で給ひしなり。釋迦の出で給ひしは、人の命百歳の時なれば、第九刧のむげに末になりにたるにこそ。第十の減刧の初めに、彌勒は出で給はむずるなり。第十五の減刧に、九百九十四佛出で給ふべし。かくの如く、世に從ひて、人の命も果報もなりまかるなり。≫

≪大方はさることにて、この日本國にとりても、又、中々世あがりては事定まらず、却りてこの頃に相似たる事も侍りき。
佛法渡り、因果辨へなどしてより、やうやう静まり罷りし名残の、又、末になりて、佛法も失せ、世の有様も悪くなり罷るにこそあるべき理なれば、良し悪しを定むべからず。
偏にあらぬ世になるにやなど欺き思ふべからず。
萬壽の頃ほひ、世繼と申しし賢しき翁侍りき。

文コ天皇より後つ方の事は暗からず申しおきたる由承る。その先は、いと耳聞遠ければとて申さざりけれども、世の中を究め知らぬは、片趣に今の世を謗る心の出で来るも、かつは罪にも侍らむ。
目の前の事を昔に似ずとは、世を知らぬ人の申す事なるべし。

かの嘉祥三年より先の事をおろおろ申すべし。

先づ神の代七代、その後、伊勢大神宮の御世より、顱草葺不合尊まで五代、合せて十二代の事は、詞に顯し申さむにつけて、憚多く侍るべし。
神武天皇より申し侍るべきなり。
その帝、位に即き給ひし、辛酉の年より嘉祥三年庚午の年まで、千五百二十二年にやなりぬらむ。その程、帝五十四代ぞ坐しましけむ。まづ神武天皇より。≫
  とて言ひ續け侍りし。」


 【第一代】神武天皇
〈七十六年三月甲辰日崩。年百廿七。九月丙寅日葬大和國畝火山東北陵。〉
神武天皇と申しし帝は
 顱草葺不合尊の第四御子なり。
 御母は海神の娘 玉依姬なり。又まことの御母は海に入り給ひて、玉依姬は養ひ奉り給へりけるとも申しき。その世に侍りしかども、細かに知り侍らざりき。
この帝、
 父の帝の御世、庚午の年に 生れ給ふ。
 甲申の年に 東宮に立ち給ふ。御年十五。
 辛酉の年正月一日に 位に即き給ふ。御年五十二。
 さて、世をたもち給ふ事、七十六年。
神代より傳はりて、劔 三つあり。
 一つは石上布留の社にます。一つは熱田の社にます。一つは內裏にます。
又 鏡 三つあり。
 一つは大神宮におはします。一つは日前におはします。一つは內裏におはします。內侍所にこそおはしますめれ。
この日本を、秋津嶋とつけられし事はこの御時なり。事遙にして細かに申し難し。
位に即かせおはしましし年ぞ、釋迦佛涅槃に入り給ひて後、二百九十年に当たり侍りし。
 されば世あがりたりと思へども、佛の在世にだにもあたらざりければ、やうやう世の末にてこそは侍りけれ。


 【第二代】綏靖天皇
〈三十三年五月崩。年八十四。十月葬大和桃花鳥田嶽陵。〉
次の帝、綏靖天皇と申しき。
 神武天皇の第三御子なり。
 御母、事代主神の御女、五十鈴姬なり。
 神武天皇の御世四十二年正月甲寅の日東宮に立ち給ふ、御年十九。
 庚辰の年正月八日己卯位に即き給ふ。御年五十二。世をたもち給ふ事三十三年。
父 帝亡せ給ひて、諒闇のほど、世の事を御兄の皇子に申し付け給へりしを、この御兄の皇子の弟達を失ひ奉らむと謀り給へりしを、この弟の皇子心得給ひて、御果てなど過ぎて、帝、今一人の御兄の皇子と、御心を合はせて、かの兄の皇子を射させ奉らせ給ふに、この兄の皇子手を慄かして、え射給はずなりぬ。帝、その弓を取りて射殺し給ひつ。このえ射ずなりぬる兄の皇子ののたまふやう、
 「我、兄なりと雖も、心弱くしてその身堪へず。汝は悪しき心持ちたる兄を既に失へり。速に位に即き給ふべし」
と申し給ひしに、互に位を譲りて、誰も即き給はで四年過し給へりしかども、つひにこの帝、兄の御勧めにて位に即き給へりしなり。


 【第三代】安寧天皇
〈三十八年十二月崩。年五十七。明年八月葬大和御陰井上陵。〉
次の帝、安寧天皇と申しき。
 綏靖天皇の御子。
 御母、皇太后宮五十鈴依媛なり。
 綏靖天皇の御世廿五年正月戊子の日東宮に立ち給ふ。御年十一。
 父 帝亡せ給ひて、明くる年十月廿一日ぞ位に即き給ひし。御年二十。
 世を保ち給ふ事三十八年なり。


 【第四代】懿コ天皇
〈三十四年九月八日崩。年七十七。葬大和國纎砂溪上陵。〉
次の帝、懿コ天皇と申しき。
 安寧天皇の第三の皇子。
 御母、皇后淳名底中媛なり。
 安寧天皇の御世十一年正月壬戌の日東宮に立ちたまふ。御年十六。
 辛卯の年二月四日壬子位に即かせ給ふ。
 世をしらせ給ふ事三十四年なり。
三十二年と申ししにぞ孔子は亡せ給ひにけると承りし。


 【第五代】孝昭天皇
〈八十三年崩。年百十四。葬大和國掖上博多山上陵。〉
次の帝、孝昭天皇と申しき。
 懿コ天皇第一の御子。
 御母、皇太后宮天豐津媛なり。
 懿コ天皇の廿二年三月戊午の日東宮に立ち給ふ。御年十八。
 丙寅の年正月九日位に即き給ふ。御年三十二。
 世を保たせ給ふ事八十三年なり。


 【第六代】孝安天皇
〈百二年崩。年百三十七。葬大和國玉手嶽上陵。〉
次の帝、孝安天皇と申しき。
 孝昭天皇の第二の皇子。
 御母、世襲足姬なり。
 孝昭天皇の御世六十八年正月に東宮に立ちたまひき。御年二十。
 己丑の年正月十三日辛卯位に即き給ふ。御年三十六。
 世を保たせ給ふ事百二年なり。


 【第七代】孝靈天皇
〈七十六年崩。年百三十四。葬大和國片嶽馬坂陵。〉
次の帝、孝靈天皇と申しき。
 孝安天皇第一の御子。
 御母、皇太后姉押姬なり。
 孝安天皇の御世七十六年正月に東宮に立ちたまふ。御年二十六。
 父 帝亡せ給ひて、次の年辛未正月二日ぞ位に即き給ひし。御年五十三。
 位を保ち給ふ事七十六年なり。
この御代とぞおぼえ侍る。天竺の祇園精舍の燒けて後旃育迦王の造り給ふとうけたまはり侍りしは。須達長者造りて佛に奉りて二百年と申しゝに燒けにけるを、祇陀太子またもとのやうに造り給へりける後、五百年にて燒けたるを、今、旃育迦王は造り給ふとぞ聞えし。


 【第八代】孝元天皇
〈五十七年崩。年百十七。葬大和國輕劔池島上陵。〉
次の帝、孝元天皇と申しき。
 孝靈天皇の御子。
 御母、皇后宮細媛なり。
 孝靈天皇の御世三十六年丙午正月東宮に立ちたまふ。御年十九。
 丁亥の年正月十四日に位に即きたまふ。御年六十。
 世をしらせ給ふ事五十七年なり。
三十九年乙丑六月にゆゆしき大雪の降りたりしこそあさましく侍りしか。


 【第九代】開化天皇
〈六十年崩。年百十五。葬大和國春日率川坂本陵。〉
次の帝、開化天皇と申しき。
 孝元天皇の第二の御子。
 御母、皇太后鬱色譴命なり。
 孝元天皇の御世二十年正月に東宮に立ちたまふ。御年十六。
 癸未の年十一月十二日位に即き給ふ。御年五十一。
 世をしり給ふ事六十年。
この御代の程とぞおぼえ侍る、南天竺に龍猛菩薩と申す僧いますなりと承りし。眞言を始めてひろめ給ひし事はこの菩薩なり。
又祇園精舍はふたたびまで燒けしを旃育迦王の造り給へりけるを百年と申しゝにぬす人やき侍りにけり。
いづこもいづこも心うきは人の心なり。
その後十三年ありて、六師迦王又造り給へると承りしはこの御時位に即かせ給ひて十年など申しゝほどとぞおぼえ侍る。


 【第十代】崇神天皇
〈六十八年崩。年百十九。葬大和國山邊道上陵。〉
次の帝、崇神天皇と申しき。
 開化天皇第二の御子。
 御母、皇后伊香色譴命なり。
 甲申の年正月十三日位に即き給ふ。御年五十二。
 世をしり給ふ事六十八年なり。
六年と申しゝに齋宮は初めて立ち給へりしなり。
又國々の貢物かちよりもてまゐる事民も苦び日數も經る、悪しき事なりとて、諸國に船を造らさせたまひき。
六十二年と申ししころほひ天竺に惡王おはして祇園精舍を毀ちて人を殺す所を定め給ひしかば、四天王沙竭羅龍王いかりをなしてこぼちける人を大なる石をもちて押し殺し給ひけるとぞうけたまはり侍りき。
六十五年と申しゝに熊野の本宮は出でおはしましゝなり。
凡そこの御門御心めでたくことにおきて暗からずおはしましき。


 【第十一代】垂仁天皇
〈九十九年崩。年五十一。葬大和國添上郡伏見東陵。〉
次の帝、垂仁天皇と申しき。
 崇神天皇第三の御子。
 御母、皇后御間城姬なり。
 崇神天皇の四十八年四月に御夢の告げありて東宮に立て奉り給ひき。御年二十。
 壬辰の年正月二日位に即き給ふ。御年四十三。
 世を治り給ふ事九十九年なり。
四年と申ししに后の兄よき隙を窺ひて后に申し給ふやう、
 「この兄と夫と誰をか志深く思ひ給ふ。」
と申し給ふに、后、何とも思さで、
 「兄をこそは思ひまし奉れ。」とのたまふを聞きて、
この御兄のたまはく
 「しからば夫は、我が色衰へず盛なる程なり。世の中に、かたちよく、われもわれもと思ふ人こそ多かることにて侍れ。我、位に即きなば、この世におはせむほどは、世の中を御心にまかせ奉るべし。帝失ひ奉り給へ。」
とて、劍をとりて后に奉り給ひつ。
后あさましく恐ろしく思せど、かく言ひかけられなむ事、遁るべき方もなくて、常に御衣の中に劍を隠して隙を窺ひ給ふに、明くる年の十月に、帝、后の御膝を枕にして晝御殿籠りたりしに、この事唯今にこそと思ししに、おのづから涙下りて帝の御顏にかかりしかば、帝、おどろき給ひてのたまふやう、
 「われ、夢に錦の色の小蛇、わが首を纒ふと見つ。又、大きなる雨、后の方より降りきてわが顏に注ぐと見つ。いかなる事にか。」
と仰せられしに、
后え隠し果て給はで、震ひ怖ぢ恐れ給ひて、淚にむせびてありの儘の事を申し給ふを、帝、聞こしめして、
 「この事、后の御咎にあらず。」
と仰せられながら、この兄の王、又、后をも失はせ給ひにき。ゆゆしくあさましかりし事に侍りき。
七年と申ししにぞ、すまひは始まり侍りし。
十五年と申ししに、丹波の國に住み給ひし皇子の御女五人おはしき。帝、これを皆参らすべき由、仰せ事ありしかば、奉り給へりしに、おのおの時めかせ給ひしに、中の弟のおはせし、容姿いと醜くなむおはしければ、本の國へ返し遣ししほどに、桂川を渡りて、心憂しとや思しけむ、車より落ちてやがてはかなくなり給ひき。あはれに侍りし事なり。さて、それより、かしこをおちくにと申ししを、この頃は、乙訓とぞ人は申すなる。
その年の八月、星の雨の如くに降りしをこそ見侍りしか。淺ましかりし事に侍り。
廿五年と申ししに、大神宮は初めて伊勢の國におはしまししなり。これより先に天降りおはしましたりしかども、所々に坐しまして、伊勢に宮遷りおはしますことは、天照御神の御教へにて、この年ありしなり。
廿八年と申しゝに、帝の御弟の御子亡せ給ひにき。その程の世の習ひにて、近く仕うまつる人々を、生きながら、御墓に籠められにけり。この人々久しく死なずして、朝夕に泣き悲しむを、帝、聞しめして、仰せらるるやう、
 「生きたる人をもちて、死ぬるに従へむ事は、古より傳れる事なれども、我、この事を見聞くに悲しきこと限りなし。今よりこの事永く止むべし。」
とのたまひて、その後、土師の氏の人、土にて人形、けものの形などを作りてなむ、人の代りに籠め侍りし。おほやけこれを喜びて、土師といふ姓を賜はせしなり。この頃、大江と申す姓は、その土師の氏の末なるべし。
八十二年、この程とぞうけ承りし。
祇園精舍は荒れ果てて、人もなくて九十年ばかり過ぎにけるを、忉利天王の第二の御子を下して、人王となして、又造り磨かると承りき。佛などのおはしまししにもまさりて、めでたくぞ造られにける。
九十三年と申ししにぞ、後漢の明帝の御夢に、黄金の人来たると御覽じて、明くる年天竺より初めて佛法唐土へ傳りにし。


 【第十二代】景行天皇
〈六十年崩。年百四十三。葬大和國山邊道上陵。〉
次の帝、景行天皇と申しき。
 垂仁天皇の第三の御子。
 御母、皇后日葉酢媛命なり。
 垂仁天皇の御世三十年辛酉正月甲子の日、東宮に立ち給ふ。
父 帝、二人の御子に申し給ふやう、
 「おのおの心に何をか得むと思ふ。」
とのたまふに、
兄の皇子、
 「我は弓矢なむ欲しく侍る。」
と申し給ふ。
弟の皇子、
 「我は皇位をなむ得むと思ふ。」
と申したまふ。
この言に從ひて、この兄の御子には弓矢を奉り、弟の御子をば東宮に立て奉り給へりしなり。
辛未の年七月十一日位に即き給ふ。御年八十四。
世を保ち給ふ事六十年なり。
五十一年と申ししに內宴行ひ給ひしに、成務天皇のいまだ皇子と申ししと、武內こそ其座に參り給はざりしかば、帝、尋ねさせ給ひしに、申し給はく、
 「人々皆御遊びの間、心を緩ぶべき折なり。その時、もし隙に窺ふ心あるものも侍らむにと思ひて、門を固めてなむ侍る。」
と申し給ひしかば、帝、いよいよ並びなく寵し給ひき。
武內は孝元天皇の御孫なり。
この後、代々の帝の御後見として、世に久しくおはしき。今に八幡の御傍に近く斎はれ給へるは、この人にいます。
五十八年二月に近江の穴穗宮に遷りにき。
熊野の新宮はこの御時にぞ始まり給へりし。


 【第十三代】成務天皇
〈六十一年崩。年百九。葬大和國狹城楯列池後陵。〉
次の帝、成務天皇と申しき。
 景行天皇の第四の御子。
 御母、皇后兩道入姬なり。
 景行天皇の御世五十一年辛酉八月壬子の日東宮に立ち給ふ。
 辛未の年正月五日戊子位に即き給ふ。御年四十九。
 世を保ち給ふ事六十一年。
御容ことにすぐれ、御たけ一丈ぞおはしましし。
武內この御時三年と申ししにぞ大臣になり給へりし。大臣と申す事はこれよりぞ始まれる。もとは棟梁の臣と申しき。これも唯大臣とおなじことなり。官の名を変え給へりしばかりなり。この帝、御子おはせざりしぞ口をしくは侍りし。さて御甥の皇子ぞ位には即き給へりし。


 【第十四代】仲哀天皇
〈九年崩。年五十二。葬河內國惠我長野西陵。〉
次の帝、仲哀天皇と申しき。
 景行天皇の御子に、日本武尊と申しし、第二の御子におはします。
 御母、垂仁天皇の御女なり。
 成務天皇三十八年三月に東宮に立ち給ふ。
 壬申の年正月十一日に位に即き給ふ。御年四十四。
 世を保ち給ふ事九年。
筑紫にて亡せ給ひにしかば、武內御骨をばとりて京へ歸り給へりしなり。


 【第十五代】神功皇后
〈六十九年崩。年百。葬大和國狹城楯列池上陵。〉
次の帝、神功皇后と申しき。
 開化天皇の御曽孫なり。
 仲哀天皇の后にておはせしなり。
 御母、葛木高額媛。
 辛巳の年十月二日位に即き給ひき。
   女帝はこの御時始まりしなり。
 世をたもち給ふ事六十九年。
御心ばへめでたく、御容世にすぐれ給へりき。
仲哀天皇の御時八年と申ししに、筑紫にて、
神、この皇后につき給ひてのたまはく、
 「さまざまの宝多かる國あり、新羅といふ。行き向かひ給はば、おのづから隨ひなむ。」
とのたまひき。
しかるにその事なくて止みにき。
皇后今のたまはく、
 「帝、神の教へに隨ひ給はで、世を保ち給ふ事久しからずなりぬ、いと悲しき事なり。いづれの神のたたりをなし給へるぞ。」
と、七日、祈り給ひしに、
神、詫宣してのたまはく、
 「伊勢の國鈴鹿の宮に侍る神なり。」
と、あらはれ給ひしによりて、
皇后、浦に出でさせ給ひて、御髪を海にうち入れさせ給ひて、
 「この事かなふべきならば、髮分れて二つになれ。」
と、のたまひしに、二つになりにき。
すなはち、みづらに結ひ給ひて、
臣下にのたまはく、
 「軍をおこす事は國の大事なり。今この事を思ひたつ、偏に汝達に任す。われ女の身にして男の姿を借りて軍をおこす。上には神の恵みを蒙り、下には汝達の助けをョむ。」
とて、松浦といふ河におはして、祈りてのたまはく、
 「若し西の國を得べきならば、釣りに必ず魚を得む。」
とて、釣り給ひしに、年魚を釣り上げ給ひにき。
その後、諸國に船を召し、兵を集めて、海を渡り給はむとて、まづ人を出して、國のありなしを見せさせ給ふに、見えぬよしを申す。
又、人を遣はして見せしめ給ふに、日數多ほく積りて歸り參りて、
 「戌亥の方に山あり。雲かかりてかすかに見え侍る。」
と、申ししかば、皇后その國へ向ひ給はむとて、石をとりて御腰にさしはさみ給ひて、
 「事終りて歸らむ日、この國にして産み奉らむ。」
と、祈り誓ひ給ひき。
この程、八幡を孕み奉らせおはしましたりしなり。
仲哀天皇亡せさせおはします事は二月なり。この事は十月なれば、ただならずおはしますとも、帝は知らせ給はぬ程にもや侍りけむ。
さて十月辛丑の日ぞ新羅へ渡り給へりしに、海の中の樣々の大きなる魚ども、船どもの左右にそひて、大きなる風吹きて速に至る。船に隨ひて、波荒く立ちて、新羅國の內へただ入りに入り来る時に、
かの國の王、怖ぢ恐りて、臣下を集めて、
 「昔よりいまだかかる事なし。海の水既に國の內に満ちなむとす。運の盡き終りて、國の海になりなむとするか。」
と、歎き悲しぶ程に、軍の船海に満ちて鼓の声山を動かす。
新羅の王、これを見て思はく、
 ≪これより東に神國あり、日本といふなり、その國の兵なるべし、我達あふべからず。≫
と思ひて、
かの王進みて皇后の御船の前に参りて、
 「今より長く隨ひ奉りて、年毎に貢物を奉るべし。」
と申しき。
皇后、その國へ入り給ひて、様々の寳の倉を封じ、國の指圖文書をとり給ひき。王、様々の寶を船八十に積みて奉る。高麗、百濟といふ二つの國、この事を聞きて、怖ぢ恐れておぢ恐れて進みて隨ひ奉りぬ。
かくて筑紫に歸へり給ひて十二月に王子を産み奉り給ひき。これぞ八幡の宮にはおはします。明くる年、皇后、京へ歸へり給ひしを、
御継子の御子たち思ひ給ふやう、
 ≪父 帝、亡せ給ひにけり。又、皇后、旣に皇子を産み奉り給ひてけり。これを位に即けむとこそ謀り給ふらめ。我らこの兄にて、いかでか弟に從ふべき。≫
とて、播磨の明石にて、皇后を待ち奉りて、傾け奉らむと謀り給ひしを、皇后、聞き給ひて、みづから皇子を抱き奉り給ひて、武內の大臣に仰せられて、南海へ御船を出し給ひしかば、おのづから紀伊の國に至り給ひにき。
その後、御子たち謀叛を起し給ひて、皇后を傾け奉らむとし給ひしほどに、赤き猪出で来たりて、この兄の御子を食ひ殺してき。
その後、次の御子、武內の大臣と、又、戰ひ給ひしも失はれ給ひにき。さてもあさましかりしこの戦ひひの間、晝も夜の如くに暗くて、日數の過ぎしを、皇后大に怪しみ給ひて、
年老いたる者どもに問ひ給ひしかば、
 「二人を一所に葬りたるゆゑなり。」
と申ししかば、尋ねさせ給ふに、
 「小竹祝と天野祝と云ふも者、いみじきともにて、歳を經るに、この小竹祝亡せにけるを、天野祝泣き悲しびて、≪我れ生きて何にかはせむ。≫とて傍に臥して同じく亡りにけるを、ひとつ塚に籠めてけり。」
と申しゝかば、
その塚を毀ちて見せ給ふに、誠に申すが如くなりしかば、ほかほかに埋まさせ給ひて後、即ち、日の光あらはれにしなり。
十月に臣下たち、皇后を皇太后にあげ奉る。この程とぞ覚え侍る。
祇園精舍を天魔焼き侍りにけりときゝはべりし。


 【第十六代】應神天皇
〈四十一年崩。御年百十一。葬河内國惠我藻陵。〉
次の帝、應神天皇と申しき。  今の八幡の宮はこの御事なり。
 仲哀天皇第四の御子。
 御母、神功皇后におはします。
 神功皇后の御世三年に東宮に立ち給ふ。御年四歳なり。
 庚寅の年正月丁亥の日位に即きおはしましき。御年七十一。
 世をしろしめすこと四十一年なり。
八年と申す四月に武內の大臣を筑紫へ遣はして事を定めまつりごたせ奉らせ給ひしに、この武內の御弟にておはせし人の、帝に申し給はく、
 「武內の大臣常に王位を心にかけたり。筑紫にて、新羅、高麗、百濟、この三つの國を語たらひて、朝廷を傾け奉らむとす。」
と、無き事を讒し申ししかば、
帝人を遣はして、この武內を討たしめ給ふに、武內嘆きて、
 「われ君のため二心なし。今、罪なくして身を失ひてむとす。心憂き事なり。」
とのたまふ。
その時に、壹岐直の祖 眞根子と云ふ者ありき。容、武內の大臣に違はず相似たりき。
この人大臣に申していはく、
「かまへて遁れて、都へ參りて罪なきよしを奏し給へ。われ大臣にかはり奉らむ。」
とて進み出でてみづから死ぬ。
武內、密に都に歸りて、事の有様を申し給ふに、大臣たち二人を召して、重ねて問はせ給ふに、武內罪おはせぬよし、おのづからあらはれにき。その後、帝、この武內の大臣を寵し給ひしなり。


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