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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.7] ■■■
[852]読み方[22]
「水鏡」の一瞥をお勧めしているのは、「古事記」に触れていると、それなりの気付きが得られるから。
その2つ目。・・・

「水鏡」の仏教の取り上げ方が、「古事記」と比較するとと、尋常ならざるものがあるという点。

上巻末は欽明天皇で締めくくり、中巻冒頭(敏達天皇〜推古天皇)は、完璧に聖徳太子譚で埋め尽くされており、すさまじい。・・・
  ≪この御世よりぞ、世の人、佛法といふ事は知り初め侍りし。≫@欽明天皇段
  ≪今年正月一日ぞ、聖コ太子は生れ給ひし。≫@敏達天皇段
  ≪「守屋因果を知らずして、今、滅びなむとす。悲しきことなり。」≫@用明天皇段
  ≪帝、聖コ太子を呼び奉りて、「汝よく人を相す。われを相し給へ。」≫@崇峻天皇段
  ≪「世の政事は聖コ太子にし給へ。」@推古天皇段


言うまでも無いが、「水鏡」といえども、仁コ天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・C寧天皇・飯豐天皇・仁賢天皇・武烈天皇・繼體天皇・安閑天皇には仏教的文言は記載されていず、この次の、宣化天皇段にのみ≪位に即き給ひて三年と申ししにぞ、天臺大師生れ給ひし時に侍りしと、後に承りし≫という付け足し文があるだけ。そして、佛法始まるの欽明天皇に繋がる。

「古事記」では、㊦🈝㉖袁本杼命〜[妹]豐御食炊屋比賣命は、ほとんど事績記載無しであり、例えば、最終天皇段は、御名・宮名・統治期間と御陵の場所名のみ(21+14文字)。その極端な違いに、唖然とさせられる。

「水鏡」は、仏教的世界観で皇統譜を眺めようとの企画で成立しているのだろうから、聖徳太子以前以後で、日本国は様態が異なるという観念が出来上がっているだろうから、当然と云えば当然だが。

一方、「古事記」は、あくまでも皇位継承の背景を示すことに注力しており、豐御食炊屋比賣命/推古天皇以前は、ほとんど影響を与えていないと判断したのではなかろうか。
崇峻天皇は、仏教推進派でもある蘇我の大臣に暗殺される訳だが、継承者は稻目大臣の女蘇我小姉君の御子。「蘇我の大臣・・・佛法を崇むるやうなれども、心正しからず。」と帝が聖徳太子に溢すほどで、仏教の教えが皇位継承に影響を与えていないことを吐露しているようなものだし。

「古事記」的には、すでに天皇は象徴的に上位に座すだけで、実権を握ることはできなくなっており、諸勢力のパワーバランスをとりながら統治するスタイル。皇位継承もその流れで決まってしまうのだろう。歌垣で、天皇が臣下に敗退する状況になってしまったのだから、いかんともしがたいものがあろう。

聖徳太子の評価にしても、斑鳩の地は、天皇の宮地から遠く離れており、宮地を重視している「古事記」のセンスからすれば、朝廷の実権を握っている筈はあるまいということになろう。

「古事記」巻末の天皇段選定は、仏教云々ではなく、おそらく、律令国家として"成文法"による統治が始まったという点を重視したということ。それを、経典文化が後押ししたことになろう。
そうした文字統治風土への大転換をに、仏法護持の聖徳太子は絶大なる貢献をしたに違いないが、政治体制を取り仕切る実権者という訳ではないというのが、「古事記」の見立てと言えそう。皇位継承への影響力は極めて薄かったと見なしたのだと思う。

・・・「古事記」の㊦🈝㉖〜㉝時代は皇統譜上の事績として収載する意味が薄いものしか無くなってしまったことになろう。天皇位が象徴化されてしまったことを意味しているとも言えよう。
唯一の例外は、竺紫君石井の乱の平定か。


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