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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.12] ■■■
[857]読み方[27]
「水鏡」の一瞥をお勧めしているのは、「古事記」に触れていると、それなりの気付きが得られるから。
その6つ目。・・・

仏教的御陵について。

用明天皇のイメージは「水鏡」が描いている通りに形成されてきた様に思われる。
聖徳太子の父 帝で、仏教受け入れに前向き、そして病弱。
記載したいのは、あくまでも聖徳太子の事績であって、それ以上では無く、それ以下でも無い。

【第卅三代】用明天皇〈二年崩。葬大和國磐餘池上陵。〉
位に即き給ひて明くる年、聖コ太子、父 帝を相し奉りて、
 「御命ことのほかに短く見えさせ給へり。
  政事をよくすなほにし給ふべし。」
と申し給ひき。
かくて、次の年の四月に、父 帝、御心地例ならずおはせしに、太子夜晝附きそひ奉りて。聲絶えもせず祈り奉り給ひき。・・・
・・・法師を內裏へ召し入れられしかば、太子、大きに喜び給ひ・・・
・・・かくて、
(聖コ太子)今年、天王寺をば造り始められしなり。

「古事記」はここらの天皇段では、事績一切不記載だが、"治天下參歲"と極めて短期だったことと、仏教的墓所(脱前方後円墳)としたい"科長"への改葬が記載されている。
  此天皇[(弟)橘豐日命]<丁未年四月十五日崩>
  御陵在石寸掖上 後 遷 科長中陵 也

    📖石寸から王陵の谷への改葬とは何か

尚、推古天皇の御陵も、「水鏡」では、磯長山田陵だけだが、「古事記」[妹]豐御食炊屋比賣命では改葬の記述。
  <戊子年三月十五日癸丑日崩>
  御陵在大野崗上 後 遷 科長大陵 也

「水鏡」執筆者には、改葬などもっての他、との観念が強かったということか。

それにしても、「古事記」の記述には味わい深いものがある。「水鏡」中巻では、敏達⇒用明⇒崇峻⇒・・・と天皇段が続くが、その記述内容は聖徳太子伝。
仏聖としての記述の意味はあるが、もともと、輪廻の観念や、因果のセントラルドグマからすれば、歴史的叙述にたいした意味は無い筈だから当然だろう。
皇統譜上の重要事項としては、(弟)橘豐日命3年、(弟)長谷部若雀天皇4年という短期間だった点にあり、号されているところから見て、前者は冥界に近しい状況だろうし、後者は天皇独裁志向だったことが想定される。聖徳太子は"上宮"厩戸豐聰耳という名称でなんらかの地位に就いていたと想像できるだけ。皇位継承への影響力は軽微そう。重要な地位にあったことをうかがわせる名前は、忍坂日子人"太子"だけである。


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