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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.16] ■■■
[860]読み方[30]
「水鏡」の一瞥をお勧めしているのは、「古事記」に触れていると、それなりの気付きが得られるから。
その9つ目。・・・

「水鏡」の序は、現代の一般人には非常に読みずらい。どうして、こうまでして、伝承譚の風情を醸し出した上で、超簡略版の歴史を記載せねばならぬのか、自明ではないからだ。(通史になるよう続編を要請されたのだろうが、「鏡」モノとしての物語化が煩雑になっており、そうする必然性が見えてこない。)
しかも、長文で仏教の宇宙史を解説している。慣れない仏教用語だから、なかなか論旨が頭に入ってこない箇所だ。そんな話と、抜粋譚だけの日本国の天皇系譜をどう結び付けたいのか。そこに、論理的な飛躍を感じてしまう。

しかし、この様な仏教観に満ち溢れている序文を通して、「水鏡」の特徴を捉えておくことは、それなりに役に立つかも。
(中山内大臣執筆と思われる「水鏡」@推定1195年頃と、従四位下の民部卿が編纂した「古事記」@712年との違いが小さなものである筈がないが、国史観が異なる時代の書であることには注意を払っておく必要があろう。・・・「日本書紀」は成立以来、"日本紀講筵"として公的にも読み継がれ講義が行われて来たが、それも965年が最終。六国史以後、官選正史編纂はなされなくなったから、歴史云々は、公家の私的ノートの範疇に属するようになってしまったと考えることもできそう。)

ただ、宇宙史といっても、創造絶対神が存在しない宗教だから、世界の生成から消滅への時間軸的過程を、仏教の観念たる≪四劫(成⇒住⇒壊⇒空)≫の循環で説明するだけのこと。・・・新しいものが生まれるということは、古いものが壊滅していくこと、との当たり前の道理を忘れないようにということと言えなくもないが。(黙示録と同じ預言的性格のもので、宗教の本質をかいまみせるものになっている。)
日常生活で見通せる範囲の微視的循環性(夜昼・季節・年)を内蔵する直線的時間軸を越えた途端に、この様な全く別の哲学的観念(無限時間の中での膨大な循環周期)の世界に平然と飛び込めるメンタリティがないととても理解できない記述であるが、信仰とはそういうものだろう。
ともあれ、釈迦生誕が住劫の滅劫というのが肝。従って、この先、社会は下降するだけとの見方が提起されているようなもの。もちろん、そこで救済が期待できる訳ではなく、衰退期にはなすすべなし、となる。昔も今も、この中で位置付けられており、実情はなんら変わる所無しが、認識の土台になっているようだ。
そして、ただただ仏道を進めとの主張になる。

つまり、過去を称揚し、未来の予兆を語るなどもっての他との姿勢。こうなると、叙述対象は、もっぱら過去の汚点となろう。そのことで、現実を否定的に見る習慣から逃れることができるからだ。
・・・直面する災禍を慨嘆せず、達観せよと命じているに等しい。要は、下降局面といっても、それは極めて長い時間軸でのことであり、現世生活の短期的視野では、上昇下降の反復の繰り返しと指摘しているといえよう。

「古事記」の事績も、よく似たモチーフが繰り返されることが見受けられ、一種の循環を考えているかも知れないが、古代の汚点をことさら叙述しようという意図は皆無に見える。
それより、その時々のパワーバランスで皇位継承がなされて来たとの冷徹な眼を感じさせる記述になっていそう。天皇親政が難しいことが実感できる譚だらけと云ってもよいのでは。
単純な因果応報で社会の動きを考えることは止めた方が良いということか。


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