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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.19] ■■■
[863]読み方[33]
「水鏡」の一瞥をお勧めしているのは、「古事記」に触れていると、それなりの気付きが得られるから。
その12番目。・・・

なかなかに微妙だが、秋津嶋との名は何時からどの様な経緯でつけられたかという問題。国名であるから、天皇称号と同じで、「古事記」を読んだところでどうなっているのかはよくわからない。
しかし、「古事記」成立時は国名を、今迄使っていた≪倭≫を止めて≪日本≫に代える最中だったようで、政治的に重要な問題だったろうから軽々に云々できる訳もない。
そもそも、≪倭≫の前ははたして≪秋津嶋≫との呼称だったのかもはっきりしている訳でもない。
しかしながら、「水鏡」では、はっきり書いている。・・・
【第一代】神武天皇
  この日本を、秋津嶋とつけられし事はこの御時なり。
  事遙にして細かに申し難し。

「古事記」では、伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みで、"大倭豊秋津嶋"(亦名:天御虛空豐秋津根別)の名称が登場。"倭"ではなく天御虛空が冠につく~名がある以上、初代天皇代での命名とは考えにくかろう。

降臨の詔ではあくまでも葦原中國だし、①初即位天皇段も、⑩所知初國之御眞木天皇段でも、触れられる機会は無い。
但し、⑥大倭帶日子國押人命は葛城室之秋津嶋宮に座す、と。これだと、国名と云うよりは葛城地区の室地域で通用していた名に映るが、内陸部で嶋との地名はあり得そうにないので尊称だろう。従って、天皇代命名とすれば、この代であると考えるのが自然だろう。大和地区の初期王朝は葛城地区勢力に支えられていたというだけの話である。

その後の国家統治が進んだ時代の、倭建命にしても、所知大八嶋國と語っており、これは序文の天武天応の飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世と呼応している様に、秋津という形容はすでに不要になっていたことがわかる。

もっとも、有名な、㊦㉑大長谷若建命㊄幸阿岐豆野での御製歌があるので、その影響力はあなどれないものがあろう。・・・"そらみつ 倭の国を 秋津洲と云"
地名由緒譚読みの常識的なセンスからすれば、この時点で名付けたというものではなかろうが。(国史では神武天皇に同類譚が収録されており、太安万侶の見方が全く異なることがわかる。というか、この歌は天皇集権を一歩進めたことを表現していることになる。)


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