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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.20] ■■■
[864]読み方[34]
細かい点での違いを見れば大いにあるものの、両者、似たり寄ったりとしたくなるのが、武內宿禰@「水鏡」と建內宿禰@「古事記」の記述。
「水鏡」と比較していると自然にわかってくるのだが、実は、両者はまるっきり違う。太安万侶流石。

・・・もちろん、"解る"といっても、所詮は、読み手の勝手な想定に過ぎない。しかし、この手の見方を確立できてこその、「古事記」読みの醍醐味。(他ソースとの比較検討分析をお勧めしている訳ではなく、それとは正反対の姿勢なのでご注意の程。「水鏡」の類似記述を読むと、自分が既存概念[暗記的知識]で読んでいることが自覚できるということ。「水鏡」以外では、この効果は、ほとんど期待薄。)

武內宿禰は有名であるので、今更、説明の要も無いが、【第八代】孝元天皇の血脈で、【第十三代】成務天皇により大臣を任じられ、神功皇后と二人三脚的に活躍して皇継皇子を護持し、仁徳天皇にも親しく御用を務めたという、驚くべき長寿の重臣。
  📖建内宿禰の長命はママ受け取るべし

「水鏡」では、景行-成務-仲哀-神功-應神-仁コの六代の帝の御後見、大臣の位にて二百四十四年、とされている。どうこじつけて解釈しようが、フィクション以外あり得ぬ数字であろう。・・・ここが重要なところで、明らかにフィクションであることを承知でこんな文を紛れ込ませたとしたら、この話に係る六代の帝の存在自体もフィクションである可能性が極めて高いと言わざるを得まい。しかし、それは伝承の"事実"と「水鏡」の執筆者は認定したことになる。
それでは、これをどう考えるか。
それこそ、自らの姿勢が問われている訳だが、普通は、どうにもならないので、そこらは曖昧にしておくことになる。それしかできない訳で。
しかし、太安万侶は、そう読まれることを覚悟していた筈で、従って、なんらかの"読み"の糸口を用意していたのではあるまいか。

そう思って、読むと、成程感を味わうことができる。
「古事記」が示唆しているポイントを列記してみよう。

○建-內-宿禰は、一般名である。
  ≪建≫は常用されている冠詞。
  ≪内≫が一族の氏を表す。
    後の朝廷での称号 "内大臣"の発祥では。
  ≪宿禰≫は天武治世の八色姓で使われた称号だが、
    古い倭語の"すく-ね"の当て字だろう。
    建-內-宿禰では個人同定できない筈。
○序文の通り、13代天皇の政務は特筆もの。
  内大臣となり、国造、国境を定めた。
   「水鏡」では初の大臣とのこと。
  …鮮烈なデビュー:皇統に連なる臣下の見本
○誕生は12代天皇期では。
  「水鏡」では12代天皇期に朝廷デビュー。
○傍系皇族だが木國造の女系。
  背景に、葛城-木國の紐帯あり。
  …初代に服属した邇藝速日命の流れを感じさせる。
○雁卵歌が最終登場場面。
  「水鏡」は仁徳五十五年亡。
  雁卵歌は詞がおかしい。
  …皇子時点の歌の可能性が高い。
○長寿を"親し気に"寿いでいるのは16代大雀命である。
  14代皇后の御子の面倒をみただけでなく、
   その御子の皇子も。(婚姻まで)
  2世代の皇子育成役として面目躍如。
   当然ながら長寿である。
   ・・・デビュー時の内大臣像とは違う。
  血族。(典型的な皇后贈り込みモデルかも。)
┼┼┼⑧大倭根子日子國玖琉命
┼┼┼└┬△木國造之祖 宇豆比古之妹 山下影日賣
┼┼┼┼○建內宿禰
┼┼┼┼└┬┬┬┬┬┬┬┬┐…9御子
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼○葛城之曾都毘古
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼△石之日賣…⑯大雀命の大后
○絶対忠誠臣下モデルとも言い難し。
  「水鏡」では兄弟権謀術数闘争あり。

武內宿禰@「水鏡」
【第十二代】景行天皇段
  ○五十一年と申ししに、
    內宴行ひ給ひしに、【第十三代】成務天皇のいまだ皇子と申ししと、
    武內こそ其座に參り給はざりしかば、
    帝、尋ねさせ給ひしに、申し給はく、・・・
  ○武內は【第八代】孝元天皇の御孫なり。
    この後、代々の帝の御後見として、世に久しくおはしき。
    今に八幡の御傍に近く斎はれ給へるは、この人にいます。

【第十三代】成務天皇段
  ○武內この御時三年と申ししにぞ、大臣になり給へりし。
    大臣と申す事はこれよりぞ始まれる。もとは棟梁の臣と申しき。

【第十四代】仲哀天皇段
  ○筑紫にて亡せ給ひにしかば、武內御骨をばとりて京へ歸り給へりしなり。
【第十五代】神功皇后段
  ○・・・皇后、聞き給ひて、
   みづから皇子を抱き奉り給ひて、
   武內の大臣に仰せられて、南海へ御船を出し給ひしかば、
   おのづから紀伊の國に至り給ひにき。
  ○その後、次の御子、武內の大臣と、
   又、戰ひ給ひしも失はれ給ひにき。

【第十六代】應神天皇段
  ○八年と申す四月に、
   武內の大臣を筑紫へ遣はして事を定めまつりごたせ奉らせ給ひしに、
   この武內の御弟にておはせし人の、帝に申し給はく、
   「武內の大臣常に王位を心にかけたり。
    筑紫にて、新羅、高麗、百濟、この三つの國を語たらひて、
    朝廷を傾け奉らむとす。」
    と、無き事を讒し申ししかば、
   帝人を遣はして、この武內を討たしめ給ふに、武內嘆きて、
    「われ君のため二心なし。今、罪なくして身を失ひてむとす。心憂き事なり。」
     とのたまふ。
   ・・・その後、帝、この武內の大臣を寵し給ひしなり。

【第十七代】仁コ天皇段
  ○五十五年と申ししに、
   武內の大臣亡せ給ひにき。
   年二百八十にぞなり給ひし。
   六代の帝の御後見をして、大臣の位にて二百四十四年ぞおはせし。



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