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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.16] ■■■
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「古事記」を、民俗、民族歴史、文芸の書として読もうとの姿勢は、≪群盲評象≫に似ている。

ただ、この諺は日本仏教的解釈(仏典記載譚なので。)で知られるようになったため、仏教が解き明かした真実(佛性)に目を開かない人は、一部ばかり見て、それに執着してしまうとの諺となっている。

しかし、もともとの天竺でのお話とは、何人かの盲人に象に触れさせて、それぞれに、その印象を語らせるもの。賢明な王は、それぞれ互いに矛盾しているようなバラバラな答になってしまったが、個々にはすべて正しいと指摘する。・・・ここが肝。
その上で、象はそのすべてを包含している動物なのだ、という極めて優れた指摘をして場を締めくくる。

個々の分析的検討は不可欠で、その質的レベルは高くないと何もわからぬが、それを様々な方向に広げ、個々にも詳細を極めたところで、全体像はわからない。それには概念思考を必要とする、というもの。

「古事記」評価もこの話に似たところがある。

古代の民俗的風習に繋がる神話を詰め込んだとして読むなどその典型と違うか。これでは、神話の概念無きまま、 "生き生きとした面白話として読める。"というだけの話になってしまいかねない。
圧巻は、史書と見なして読む姿勢。史書とは、王朝の"正統性"を確立するために編纂された書であり、言ってみれば、それは未来志向。「古事記」には、未来に繋げようという意向は皆無だろう。だからこそ、その内容に"凄み"がある訳で。

そう感じさせるのは、俗に云うところの神話が生き続けていることを示しているからだ。
感受性はヒトそれぞれ違うものの、「古事記」には上・中・下の巻に本質的には断絶は無いことに気付くかどうかの問題でもある。もちろん、天皇段の前後の繋がりという意味でゴチャゴチャした記載になっていて、巻の仕訳ができていないよの印象を与えるから、そう感じる人もいようが、その問題ではない。

一例をあげれば、沙本毘賣の出産。・・・はっきりと"火中所生"と書いてあり(燃えている最中の出産という情景になっている訳では無い。)、上巻のモチーフと同一と考えるように指示されている。

これに限らず、類似モチーフが巻を越えて登場してくると感じさせるような部分は少なくない。もともとは、天武天皇が幼少時代から耳にした話の伝聞であるから、似たモチーフが繰り返されるのは、ある意味、必然ではあるものの、語り部の稗田阿礼と太安万侶がこれこそが倭の信仰の基層と感じたからこそ目立っていると考えるのが自然。

このモチーフの繰り返しというか、その心象風景のデジャブ感が、「古事記」全体の話に波動感を与えているとも言えそう。倭の口誦叙事の形式としては極めて重要な手法ではなかろうか。


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