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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.25] ■■■
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712年成立の「古事記」は、律令制国家の書としては、内容的に折り合いが悪かったようで、太安万侶が全精力を投入して仕上げたにもかかわらず、朝廷内ではほとんど無視されてしまったようだ。
701年の大宝律令の制定・施行によって、唐に倣った律令制(刑罰法と行政運営規則)はほぼ完成したとされる。以後、約2世紀はこの体制が維持されたから、忘れ去られてしまったのも道理。(その存在は、本居宣長の研究発表迄、ほとんど知られていなかったらしい。)

国史は律令制国家としては不可欠な書であり、王朝の正統性と思想的基盤を提示するもの。一方の「古事記」は、最古の書というだけで、公式言語記載で無い上に、神統譜-皇統譜を提供するだけの書だから、邪魔な存在でしかなかったのだろう。
書を読むとそんな気分にさせられたとすれば、太安万侶は儒教的思想に反感を覚えていて、それが伝わってしまったということかも。儒教国家とは、天皇から末端官僚まで、私的生活を含むすべてを管理統制しかねないのだから、ありえそうな気がする。官僚として、鎮護仏教+官僚制統治の流れに沿って全力で活動していたのは間違いないと思うものの。

「古事記」では、㊦🈝㉖袁本杼命〜[妹]豐御食炊屋比賣命の事績無しが、中央集権型統治移行期間であることを示しており、その後が律令制国家に向けた歩みであることが示唆されている訳だが、政権にとって一番重要な律令制国家化への道が読み取れるようにはできていない。
従って、見方によっては、古代天皇と、律令制国家の天皇には、その役割において断絶があることをクローズアップしている書とされてしまいかねない。これでは、天皇の権威の源泉でもある万世一系を打ち出しても、逆効果になりかねまい。・・・そんなところか。

ただ、律の罪については、一応触れているから、それなりの配慮はなされてはいる。...
≪赦其罪也≫
   @㊦㉑大長谷若建命㊇伊勢國之三重婇
≪種種求・・・之罪類爲國之大祓≫
   @㊥⓮帶中日子天皇⓷建內宿禰:殯宮
問題になりそうなのは、臣下の祖が神統譜-皇統譜で位置付けられている点だろうか。読み方によっては、官僚統治体制に反する動きを見せかねないと危惧した可能性もあろう。

ただ、それより厄介そうなのは、天皇が地祇の祭祀に係っている点だろう。律令国家としてどの様に対処したのか分からないが、地方勢力を官僚がコントロールできない状況が生まれかねない訳で。


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