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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.27] ■■■
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「古事記」は多分に刺激的な書でもある。

・・・神統譜-皇統譜を整然と記載しているものの、事績は継承の背景を伺わせるものだけで、万世一系であることを寿いでいるのは間違いないものの、神典とみなすなら別だろうが、尚古思想の欠片も感じさせないからだ。
天の意向に沿った、天子の統治記録をまとめておこうとの、儒教型思考とは水と油。にもかかわらず、実際には、儒教型の天子独裁-官僚統制型の政体へと突進していた真っ最中に書き下ろされたのだから驚き。

お蔭で、和辻哲郎がどうして儒教の本質を見誤ったのかも、なんとなくわかってきた。
簡単に云えば、一神教と多神教の概念を、<1神=唯一・絶対神>と<多神=根はアニミズム>との二元論で考えていたからだろう。この見方は実は表層的。

儒教型国家の信仰とは、唯一絶対神ありき。
それは人民の信仰対象ではなく、天子=独裁者のみが祭祀対象とする最高~。人民からすればそれは相対する様な神という存在ではない。食に満足でき、子孫を残せるなら、それで十分であり、形而上の"天"でしかない。これとは別に、人民と個々に交渉する神々、祖独裁の宗族霊群や、そこに入れない鬼神等が存在している。従って、見かけは雑多な多神教。
しかし、この信仰こそが唯一絶対神の元祖と云うべきでは。

一方、一神教とされているセム族の信仰は、部族神的記載の聖書として結実しているものの、信仰基盤自体は原則個々人と唯一神との契約(信仰告白)。ところが、現実には、教組崇拝が組み込まれたりするため、実際は神の定義は曖昧化せざるを得ない。その上、実態としては、精霊が存在していない訳でもない。このことは、もともとは精霊のアニミズムだったことを示唆していると見た方がよさそう。つまり、バラバラだった信仰を部族として統一する必要性に迫られて一神教化したと考えるのが自然だろう。

このどちらにも属さないのが古代天竺型マナイムズ。多神教といえばその通りだが、正確にはアニミズムではない。

この3分類で考えると、「古事記」型の神々の性情は天竺型ということになろう。


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