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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.31] ■■■
[905] 26
「古事記」所収歌で、太安万侶がこれぞ天皇御製として打ち出していそうなのは≪百礒城の大宮人は・・・≫では。

<高光る輝かしく日の皇子>に豐御酒奉らせ、との皇后の前歌に対応する、<高光る日の宮人>は今日もかも酒御付くらし、とある、なにげに愉しい作品。
鶉鳥・鶺鴒・庭雀が動きまわっているナという表現の面白さに、威厳とか公的立場を考慮に入れている風情を全く感じさせないところが秀逸。しかも、<事の語り事も 此をば>と、≪八千矛の神の命は八洲国・・・≫の時代の基本形式を踏襲している。
倭歌の本質は遊びであると指摘しているようなもの。

大御酒に係る御製に付属する諺譚にしても、≪堅石避醉人≫だったりする訳で、酒宴での大笑いのタネ以外の何者でもなかろう。

・・・こうした見方は思っている以上に重要だと思う。

「古事記」は歌と地文が不可分で一体化しているのだから、音の響きとリズムに酔いながら、そこここに押し込められた可笑しさを味わうものであるということになるからだ。笑いとは無縁な国史と並べて解釈するなどおよそ考えられないということ。(しかし、そう考えるのは異端とされる社会であることを理解しておく必要があろう。)

例えば、現代日本人の平均像からすれば、自ら冗談を言うことは日常的にはほとんどなくなっているらしいし。かつては、そこここ耳にすることが多かった親父ギャグの類も嫌われているそうで、消滅一途とか。(馬耳豆腐や馬の耳に粘土といった類や、駄洒落。・・・競馬小父さん達によると、馬諺は実は冗談だらけらしい。低俗な人種ですぞと卑下しているのかと思いきや、高度で洗練された知的遊び。万券一馬とか、東スポを以て馬を相すの類だが、小生は、競馬の世界に縁遠いのでその感覚は分からない。米国議会での日本国首相の演説は大うけしており、今や、極く一部の親父層だけが狭い社会で辛うじて冗談文化を伝えている可能性がある。)

しかし、現代社会に笑いが無い訳ではなく、逆である。知らないと意味が全くわからぬギャグの物真似とか、常識破りの突飛な行動を皆で面白がるシーンは至る所でお目にかかる。

これは、おそらく、「古事記」の対象読者層の体質とは全く違う。(現代人は「古事記」を面白いとは思わない可能性が高いということになる。)


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