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■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.1] ■■■
[歌の意味34]非収載の国史挿入歌一瞥
国史に、何故にこれほど歌を必要とするのか、理解しがたいところがあるが、「古事記」が収載していない「日本書紀」の歌を眺めていると、なんとなくでしかないとはいえ、その気分が分かる気がしてくる。
もっとも、歌を公的史書に収録した理由を説明せよ、とのご下問があっても、受験教育を受けて来た身であれば、即答は容易。・・・
漢文を公式正文としている以上、表面的には中華帝国の属国に甘んじていることになる。そうなれば、ゆくゆくは朝鮮半島のように、上流階層のコミュニケーションの基本は漢語となり、時に、非支配者階級相手に非漢語話語も使うといった、完全なバイリンガルの道へ進むことになる。しかし、日本国の国史編纂プロジェクトメンバーの多数はそれを避けたいという意志が強固だったのだろう。倭語でしか表現できない歌をそこかしこにちりばめることで、その方針を高らかに宣言したことになる。

以下、一瞥できるように整理してみた。

「古事記」は叙事で固めているので、流石よくまとまっている。できる限り、余計な記述は削ぎ落す方針なのがよくわかる。国史はそういう訳にはいかず、万遍なく記載することに努めているから、どうしても様々な話が入って来て長くなる。だからこその面白さではあるが、それは情報内容がバラケルことにもつながる。そのような状況で、皇統譜の正当性を打ち出せるように工夫しなければならないので骨であろう。
天武天皇によれば、事績や皇統譜の異伝が甚だしいというのだから、生半可な苦労では済まなかったに違いない。

これに比べると、「古事記」は個人のエスプリの結晶とも言えそうな作品に仕上がっている。太安万侶の力量は、現代の一流知識人のレベルをはるかに超えているのは間違いない。
国史も優秀な官僚達の英知を結集し膨大な時間を費やした上でようやくにして結実した質の高い著作に仕上がっていっるものの、頭の働かし方が完璧に分析的なため、比較するような作品ではない。
従って、凡人は国史ならいくらでも解釈可能だが、はたして「古事記」を読み解けるかは、なんとも言い難し。少なくとも、多面的でインターナショナルな感覚と、詩的センスで作品を味わえる体質が備わっていないとほとんど無理と見て間違いなかろう。

「古事記」が収録していない歌を逐一眺めて🔍行くと、両書の違いがよくわかる。立場は全く違うものの、現代とは違って、その編纂姿勢は真剣勝負そのものに映る。・・・

⇓「古事記」の歌(「古事記」歌番号はテキストに従っておりません。)
   ⇓「日本書紀」の歌 📖同一/類似歌
<上巻@出雲>
   巻一神代上
1---1
2 3 4 5 6---■■■■■
   巻二神代下
7---2
┌───────────────────────
[7]天なるや弟織機の項がける珠の御統
 御統にあな珠はや御谷二渡らす味耜高彦根の神ぞや
[2]天なるや弟織女の頚懸せる玉の御統の
 あな玉はやみ谷二渡らす味耜高彦根
└───────────────────────
_---3喪に會する者 or 下照媛天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 女ろよしに よし寄り來ね 石川片淵
🔍… 続いての歌だが、"石川片淵の歌"と味耜高彦根の関係が全くわからない。重要な意義がなければ割愛すべき歌だろう。取り上げた意図は見当もつかない。[但し、本文ではなく、一書引用。]
<上巻 降臨> 無歌
_---4瓊々杵の尊沖つ藻は 邊には寄れども さ寢床も 能はぬかもよ 濱つ千鳥よ
🔍…御子認知せずで怒りをかい、同衾させてくれない。
<上巻 八尋和邇>
8---6
9---5
<中巻初代天皇段>
   巻三①神武
10---7
11---9
__---10來目部今はよ 今はよ ああ しやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ
🔍…江戸後期の復興後(1466年で中絶 1818年再興)、久米歌の代表歌として鴫罠と共に使われている。詠った後で大笑いする歌とされているので、両者は欠かせない。小生は、泣き笑いで大いに盛り上がる戦勝の酒宴を想起するが、儒教化が進むと笑いは敵対宗族撲滅の嘲笑でしかあり得なくなり、儒教と無縁な戯歌としての笑いを抑鬱したくなるので、こちらの一般歌で笑いを取ることになろう。
__---11來目部夷を 一人 百な人 人は云えども 抵抗も為ず
🔍…夷の定義が曖昧。この手の典型的な軍歌は、いくらでも存在していた筈で、恣意的に選んだと見てよいだろう。国史としては、軍歌無しは拙いし。太安万侶から見れば、この手の作品は単純な脳細胞向けの作品で、宮廷歌謡に不向きに映った筈。収載の意義ゼロ。
12---13
13---14
14---_8
15---12
16 17 18 19 20---■■■■■
21 22---■■
   巻四②綏靖〜⑨開化
__---__
<中巻10代天皇段>
   巻五⑩崇神
__---15活目此の~酒は 我が~酒ならず 日本成す 大物主の 醸みし~酒 幾久 幾久
__---16諸大夫等味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を
__---17御製味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
🔍…醸造は地場常在菌の働きに由来するので、御酒は土着地祇あるいは"大国主命&少名御神"から賜ったとするのが妥当。しかし、それでは朝廷の権威を損ないかねず、天皇が祭祀を命じた大物主の醸みし~酒となっただけのこと。
┌───────────────────────
[40]此の御酒は吾が御酒ならず御酒[奇]の司常世に坐す石立たす
 少名御神の神祝き寿き狂ほし豊寿き寿き廻ほし奉り来し御酒そ浅ず飲せささ
[32]此の御酒は我が御酒ならず~酒の~常世に坐すいはたたす
 少御~の豐壽ぎ壽ぎもとほし豐壽ぎ壽ぎくるほし祭り來し怨酒ぞ乾さず飮せささ
[41]この神酒を醸みけむ人はその鼓臼に立てて歌ひつつ醸みけれかも
 舞ひつつ醸みけれかもこの御酒の御酒のあやに歌愉しささ
[33]此の御酒を醸みけむ人は其の鼓臼に立てて𣤒ひつつ醸みけめかも
 此の御酒のあやにうた樂しささ
└───────────────────────
23---18
__---19時の人大阪に 繼ぎ登れる 石群を 手遞傳に越さば 越しがてむかも
🔍…明らかに箸墓築造歌。太安万侶から見れば、大和地区文化の一般表象墓たる前方後円墳でしかなく、特別視点すべき必然性は薄かろう。
   巻六⑪垂仁
__---__
<中巻倭建命関連>
24---20
   巻七⑫景行〜⑬成務
   (33)---21
25---
__---24時の人朝しもの 御木のさ小橋 群臣 い渡らすも 御木のさ小橋
🔍…筑紫後國⇒御木國という地名改訂譚である。倭建命譚にならない話は「古事記」には無用。
26---25
27---26
28 29---■■
30---27
31---22
32---23
33---21
34 35 36 37 38---■■■■■
   巻八⑭仲哀
__---__
   巻九⑭神功
__---28熊之凝彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢を副へ 貴人は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は
🔍…歌人の熊之凝がどのような役割か不明だが、歌は忍熊王軍の戦意高揚目的以上ではなかろう。にもかかわらず、肝心の、どう戦おうと呼びかけているのかが不明。振熊歌で勝利の様子はわかっているから、割愛してもよかったのだろうが、なんらの意味があるかも知れぬということで、国史としては、残しておこうと決断したのだろう。
<中巻15代天皇段>
39---29
┌───────────────────────
[39]いざ吾君振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ
[29]いざ吾君五十狭茅宿彌たまきはる内の朝臣が頭槌の痛手負はずは鳰鳥の潛爲な
└───────────────────────
__---30武内宿禰淡海の海 瀬田の濟に 潜く鳥 目にし見えねば 憤しも
__---31武内宿禰淡海の海 瀬田の濟に 潜く鳥 田上過ぎて 莵道に補へつ
🔍…琵琶湖に沈の遺骸がすぐに見つからなかったが、瀬田⇒田上⇒莵道/宇治と流れただけだった。地勢的状況がよくわかるが、入念な遺体探しを行ったことを詠んでいる訳で、敗者への丁重扱いを表現する歌を詠むことで鎮魂を願っているように思われる。
40---32
41---33
   巻十⑮応神
42---34
43---
44---35
45---36
46---37
47---38
48---
49---39
50---
  (54)押し照るや 難波の前由 出で発ちて 吾が国見れば
    ↕   阿波島 淤能碁呂島 蒲葵の 島も見ゆ 先つ島見ゆ

__---40⑮応神御製淡路島 いや二竝び 小豆島 いや二竝び 宜しき島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの
🔍…歌人が異なるので類似と云いかねるが、「古事記」歌は吉備のK日賣の元への幸行途中の"坐淡道嶋 遙望歌"であるから、情景的には同じ。 淤能碁呂島を詠むことで正統性を高らかに宣言している姿を描いている訳だが、真面目に逐一対処するしかないと、この島の同定論議が発生しかねず、論議回避が図られたか。
   巻十一⑯仁徳
   (75)---41
51---42
52---43
<下巻16代天皇段>
53 54 55 56 57---■■■■■
__---44 45 46 47 48 49 50☚ ㊀天皇(妃入宮) v.s. 皇后(妃排除)
__---51御製難波人 鈴船執らせ 腰煩み その船執らせ 大御船執れ
🔍…「古事記」では、"於是太后大恨怒 載其御船之御綱柏者悉投棄於海"後の展開は、大后がそのママ船で山代川へと向かうことになる。
58---53(つぎねふや山代川を川上り---つぎねふ山背河を河泝り)
59---54
60---52
61---
62---58
63---55
__---56御製つぬさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の樹
🔍…「古事記」のストーリーには向かない。奇虫を見に行こうという理屈を、口子臣+口比売+奴理能美が思い付き、それに乗って天皇-皇后関係修復へと進んでいる状況だから。ただ、<桑物語>的に仕上げてあるきらいはある譚なので、面白い歌ではある。
64---57
65 66---■■
67---
68---59
69---60
70---
71---
└梯立の倉椅山は 険しけど 妹と登れば 険しくも非
__---61隼別の皇子梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安席かも
🔍…これは紛れも無き同類歌だが、"実は"同じではない。"妹と"は恋歌の基本原理に則ているが、ここでの"二人"という概念は男と女を一緒くたにした近代の幻想観念に近いからだ。
72---62
73---63
74---
75---41
<下巻17代天皇>
   巻十二⑰履中〜⑱反正
76 77---■■
78---64
   巻十三⑲允恭〜⑳安康
__---65 66 67 68☚ ㊁⑲允恭天皇と衣通郎姫の忍び愛
  「古事記」衣通郎姫=軽大郎女=⑲天皇の皇女(母:忍坂大中津比売命)
  「日本書紀」衣通郎姫=⑲天皇の皇后忍坂大中姫の妹
<下巻軽王・軽大郎女>
79---69
80---
81---72
82---73
83---71
84 85---■■
86---70
87 88 89 90---■■■■
<下巻21代天皇段>
   巻十四㉑雄略
91 92 93 94 95 96---■■■■■■
__---74圓の大臣の妻臣の子は 栲の袴を 七重をし 庭に立たして 脚帶撫だすも
🔍・・・目弱王抹殺譚。目弱王を含め、皇位継承権保有者に対するサラミ戦術を採用した天皇であることがわかるような記述になってはいるものの、そのこと自体には太安万侶はほとんど無関心の態。伝承譚には、様々な歌があっておかしくなかろうが、「古事記」は取り下げだろう。
97---75
98---76
__---77 78 79 80 81 82☚ ㊂なんでもかんでも
99 100 101 102 103 104---■■■■■■
   巻十五㉒清寧〜㉓顕宗〜㉔仁賢
[105]---
└物部の 我が夫子の 取り佩ける 大刀の手上に 丹畫き著け 其の緒は 赤幡を載り 立つる赤幡見れ者 山の三尾之 竹矣 訶岐刈り 末押し縻かすなす 八絃琴調ふるごと 天下所治賜 伊邪本和気天皇之御子 市辺之押歯王之 奴末
🔍…"歌曰"ではなく、舞踏時の詠みで、歌表記文字ではない。歌を詠む環境とは程遠い生活を送っていたという見立て。
__---83御製稻莚 河副柳 水行けば 靡き起き立ち 其の根は失せず
🔍…境遇はどうあれ、皇位継承宣言とも言える歌舞であるから、仮宮で臣下がまとめた作品ということか。
__---84常世詞人倭邊に 見が欲しものは 忍海の 此の城なる 角刺の宮
🔍…崩御後の空位期に市邊忍齒別王の妹/忍海郎女/飯豊王の宮@葛城忍海が治めた以上の事は「古事記」には記載が無い。
<下巻23代天皇段>
105 106 107 108…110 111---■■■■ ■■
112---85
113---86
   巻十六㉕武烈
109---87
ーーー
__---88 89 90 91 92 93 94 95
   巻十七㉖継体
__---96 97 98 99
   巻十八㉗安閑〜㉘宣化
__---__
   巻十九㉙欽明
__---100 101
   巻二十㉚敏達
__---__
   巻二十一㉚用明〜㉜崇峻
__---__
   巻二十二㉝推古
__---102 103 104
ーーー
   巻二十三㉞舒明
n.a.---105
   巻二十四㉟皇極
n.a.---106〜112
   巻二十五㊱孝徳
n.a.---113〜115
   巻二十六㊲斉明
n.a.---116〜128
   巻二十七㊳天智
   巻二十八㊵天武(上)
   巻二十九㊵天武(下)
   巻三十㊶持統
ーーー
🔍天皇(妃入宮) v.s. 皇后(妃排除)
   「古事記」は叙事に組み込まれた宮廷歌を収録しているのであり、宮人媛の話は不適。大后嫉妬についての理屈掛け合いも意味なかろう。

  ≪宮人桑田玖賀媛を寵愛できず。播磨遠待が賜るが、媛は独身に固執。≫
   44御製水底ふ 臣の嬢子を 誰 養はむ
   45播磨遠待みかしほ 播磨遠待 岩壊す 畏くとも 吾 養はむ
  ≪天皇と皇后の主張はすれ違いに終始≫
   46御製貴人の 立つる辭立 儲弦 絕ゆ間繼がむに 竝べむ君は 畏きろかも
   47磐之媛の命衣こそ 二重も宜き さ夜床 竝べむ君は 畏きろかも
   48御製おしてる 難波の埼の 竝び濱 竝べむとこそ その子はありけめ
   49磐之媛の命夏蟲の 蛾の衣 二重著て 圍み屋たりは 豈宜くもあらず
   50御製朝妻の 避箇の小坂を 片泣きに 道行く者も 偶ひてぞ宜き
🔍允恭天皇と衣通郎姫の忍び愛
   「古事記」は輕皇子と輕大郎女の愛を描きたいのであり、天皇の恋愛譚無用。国史は天皇譚掲載なくしては役割喪失であるから、削ること不能。

   65衣通郎姫我が夫子が 來べき夕なり 小竹が根の 蜘蛛の行ひ 今宵著しも
   66御製ささらがた 錦の紐を 解き放けて 數多は寢ずに 唯一夜のみ
   67御製花細し 櫻の愛 如此愛では 早くは愛でず 我が愛づる子等
   68衣通郎姫常しへに 君も遇へやも いさなとり 海の濱藻の 寄る時々を
🔍なんでもかんでも
   国史は、伝承事績は、その関係者や場所・時間が曖昧であっても、調査して妥当性を検討した上で、できる限り盛り込むことになろう。ただ、矛盾回避と権威を気付付けないという大暫定があるものの。一方。「古事記」は余計な話は持ち込まず、方針に沿っての取捨選択となるので、この箇所のような現象が発生する。以下は、長々と様々な話が続くなかに埋もれている6種である。史書としては、この時代の特徴が見えてくる箇所であり、倭国が匠を重用していたことがわかったりして面白いが、叙事に埋め込む宮廷歌としての価値は無い。

   77御製隠り國の 泊瀬の山は 出で立ちの 宜しき山 走り出の 宜しき山の 隠り國の 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し
   78秦の酒公~風の 伊勢の 伊勢の野の 榮枝を 五百經る懸きて 其が盡くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 云ひし工巧はや あたら工巧はや
   79齒田根の命山邊の 小島子ゆゑに 人衒らふ 馬の八匹は 惜しけくもなし
   80同伴巧者あたらしき 韋名部の工巧 繫けし墨縄 其が無けば 誰か繫けむよ あたら墨縄
   81同伴巧者ぬば玉の 甲斐の黒駒 鞍著せば 命死なまし 甲斐の黒駒
   82吉備臣尾代道に逢ふや 尾代の子 母にこそ 聞えずあらめ 國には 聞えてな

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