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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.22 ■■■

袈裟と僧衣

成式達は、袈裟と僧衣に相当に関心があった模様。理由のほどは定かではないが。

初期の仏教教団では、俗人が使わない衣を再生したものを使っていたと言われているが、その精神から遠ざかっていることが気がかりということだろうか。
ついついそう思ってしまうのは、暑い時期にフゥーフゥー言って待っていた列車に乗ると、超贅沢品の繻子を身につけた僧侶が涼し気に座って雑誌を読んでいたりするから。色も上品で、特注品の感じ。世俗的華美の対極としての糞掃衣着用精神など、どこにも感じられないお姿。
と言っても、僧侶の衣類についてはほとんど知識が無いから、たいしたことは言えないが。
なにせ、「続集卷六 寺塔記下」の僧侶の衣類話の箇所など、言葉遊びであるとはいっても、超難解でチンプンカンプン。・・・

征釋門衣事,語須對:
 如象鼻,投牛
(一雲羊) (柯古)
 五納,三衣
 (善繼)
 慚愧,鬥藪
 (升上人)
 壞衣,嚴身
 (約上人)
 畜長十日,應作三誌
 (入上人)
 雜身四寸,掩手兩指
 (柯古)
 瑣形,刀殘
 (善繼)
 其形如稻,其色如蓮
 (升上人)
 赤麻白豆,若青若K
 (柯古)

なんとかわかる僧衣単語は、"五納,三衣"と"壞衣"のみ。しかも、たったこれだけでも、その意味を理解しているとも言い難い状況。
と言うことで、少し調べておくか、となった次第。

「佛制比丘六物圖」を見ると、"三衣"の絵図が掲載されている。僧伽梨大衣(5枚x9〜25条)-欝多羅僧七條(3x7)-安陀會五條(2x5)が決まり事になっているようだ。説教用の上衣(斷癡心)、修行用の中衣(斷嗔口)、仕事着としての下衣(斷貪身)で三衣斷三毒ということらしい。
つまり、所持品が三衣一鉢というのが、僧らしい姿ということになるのだろう。

マ、形状からいえば、パッチワークであるから、稻田の畔模様になる訳だ。しかし、仏教だから蓮華色にするとか、畑の麻や豆にあやかって赤とか白、はては青々とか黒々といった色調にするのは、可笑しすぎ、ということになる。

用語を調べてみると、「法苑珠林卷一」に、"衣中有四者:一,糞掃衣;二,毳衣;三,衲衣;四,三衣。"と。
[=毛x3]があるのでビックリ。考えてみれば当たり前で、熱帯的な猛暑に晒されるインドでは不要だろうが、アフガン高地や中華帝国の首都は寒冷地であり、"三衣"重ね着だけでは寒かろう。

辭。宣律和尚袈裟絶句:
  共覆三衣中夜寒,披時不鎮尼師壇。
  無因蓋得龍宮地,畦裏塵飛業相殘。


但し、中華圏では、毳衣とは、天子から大夫迄の礼服である。庶民が着用する類のものではない。僧侶はその階級と見なされていたことになろう。

納衣だが、使い棄てられた衣のつぎはぎ再生品の意味だと思われる。五納に糞掃衣も含まれるようなので、カテゴリー感がつかみにくいが。有施主衣、無施主衣、往還衣、死人衣といった状況によっても定義されているらしい。

もちろん、壞衣は、袈裟の色による定義。・・・
 如經律中。通云壞色。故文云。當以三種青K木蘭。隨用。
   [唐 道宣:「釋門章服儀」四 法色光俗篇]

インドの民は原色好きだから、衣類への執着を無くすには、そんな俗色の五方正色(青黄赤白K)を"壊す"必要があったのだろう。通常は、銅青・黒壊・木蘭(雑色)ということになる。
釈尊の生の言葉でいえば、こんな具合。・・・
 自ら濁穢を離れずして濁穢の衣を著んとするも、
 自制と眞實とを缺くときは 彼は濁穢の衣に應ぜず。
 濁穢の衣―袈裟の翻名なり、又は不正色とも言ふ。
(九)
 自ら濁穢を吐き、專ら善く諸の戒を念じ、
 自制と眞實とを具ふるときは 彼は濁穢の衣に應ず。
(十)
 肩に袈裟を纏ふものの多くは惡を行ひ節制なし、
 (斯かる)惡人は惡業に因りて地獄に墮す。
(三〇七)
     [荻原雲來訳註:「法句經」]

これを遵守するなら、五大上色は避けるべしとなる。"近見白布為頭経者。斯又可怪。法滅之相。"である。
ところが、そんなことは無視される時代に入っていたようだ。

北朝時,徐州角成懸之北,
 僧尼著白布法服,
 時有青布袈裟者。
一壞成如法色。良以。
 [卷三 貝編]

"末世學律。特反聖言。冬服綾羅。夏資紗。"状態ということ。

着用の仕方も決まっている訳で、普通は右肩の肌を露出して掛けるものだが、だらしなくだらりと垂らす僧もいて、"前垂一角。為象鼻相。"になったりして。
由此佛製還以衣角居于左臂。坐具還在衣下。但不得垂尖角如象鼻羊耳等相。 [翻譯名義集卷七]

中華帝国では別の規準で、官僚の作った"律"の遵守が申し渡された模様。と言うか、最上クラスの高僧は官寺所属であり、当然ながら袈裟をお上から頂戴することになる。官僚組織でもあるから、一律支給などあり得ぬ。細かなランクに応じた支給ルールが定められることになる。

梁簡文帝有《謝賜郁泥納袈裟表》。

この場合は、泥色化した三衣らしいから、仏典に従ったものを、お布施として提供したのであろう。
梁簡文帝有謝賜
  郁泥細納袈裟、郁泥納袈裟、郁泥真納九條袈裟表三首。


もちろん、官僧でなくても、僧崇一のように、ご下賜品として、衣類を頂戴することになる。 [→「中華仏教観」]

寧王憲寢疾,上命中使送醫藥,相望於道。
僧崇一療憲稍,上ス,持賜崇一緋袍、魚袋。


顕著な功績あらば、褒美をとらせるのが、中華帝国の統治の根幹をなす仕組み。これが円滑にいかないと、天子-官僚の秩序を保てなくなるから、結構重要だった筈である。
もっとも、官位にとりたててもらうことを、素晴らしき哉と感じる仏僧とはいかに、というのが常識的な見方であろう。言うまでもないが、緋袍とは五品〜七品クラスの官人公服であり、魚袋とは役所入門用IDとしての割符。
《金陵襍志》載:隋煬帝戒師聖種納袈裟一縁黄紋舍勒一腰綿三十屯鬱泥南布袈裟一縁鬱泥南絲布褊袒一領鬱泥絲布方裙一腰鵄納袈裟一領 [「欽定四庫全書」通雅卷三十六 衣服]

中華帝国の統治からはみ出しかねない仏仏祖祖相伝の袈裟を有難がるなどもっての他という方向に、時代は流れている訳だ。
衣と法が正しく伝わっていない状況ということは、それこそ慚愧懺悔もの。釈尊は、法衣は"能覆其身遠離羞恥,具足慚愧修行善法。"とされ、"良田"のようなもので"甲冑"のようでもあると述べた、と。 [唐 般若譯:「大乘本生心地觀經」第五卷]
ということでもおわかりのように、"慚愧,鬥藪"とは衣の呼び名なのである。
慚愧之上服者。世間上服以障弊為義。[「維摩經義記卷第四」]
解印出公符、鬥藪塵土衣。[「解印出公符」白居易]

正伝の袈裟には様々な功コあるとされており、そこから逸脱するのはどういうことなのであろう。・・・
若有衆生爲饑渇所逼。若貧窮鬼神下賤諸人。乃至餓鬼畜生。若得袈裟少分乃至四寸。其人即得飲食充足。隨其所願疾得成就。 「法苑珠林 卷三十五 法服篇」
釈尊の大衣は、弥勒菩薩にまで繋がる話もある訳だし。
爾時,彌勒持釋迦牟尼佛僧伽梨,覆右手不遍,纔掩兩指,復覆左手,亦掩兩指;諸人怪歎,先佛卑小,皆由衆生貪濁24973慢之所致耳。 [沮渠京聲 訳:「觀彌勒菩薩上生兜率陀天經」]

おそらく、天子ご下賜品だらけの状況だと、三衣のみという僧は少なくなっていたかも。パッチワーク寸足らずを避け、普通の長衣の着用も増えていたことだろう。畜長十日とは、名目上は俗衣の期限限定の借用を指していそう。獣的目的で俗衣を所持し続けている僧だらけと揶揄せざるを得ない状況に陥っていたのかも。

出家したばかりの僧侶だらけで、自家染なのだろうから、規律通りにはいかなかったことも多かっただろうし。
若比丘尼新得衣應三種色作誌。若青若K若木蘭。若不以三色作誌波逸提。[「彌沙塞部和五分律」]

尚、成式は沓についても一行記載している。現代でも、靴を見ればクラスがわかるとされている位だから、思うところが色々あったに違いない。ほとんど触れてはいないが。
日本では、内陣用"草鞋"と野外用"浅沓"が正式な履物の"沓"で、これ以外は"草履"ということになろうが、その辺りの取決めもどうでもよくなっていた訳か。

波斯屬國有阿荼國,城北大林中有伽藍音佛,於此聽比丘著函縛。函縛此言靴也。

(参照) 唐 元照撰:「佛制比丘六物圖 (1卷)」大正新脩大正藏經 Vol. 45, No. 1900@CBETA
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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