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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.9.18 ■■■

"黄金の驢馬"と言えば、いかにも伝説的なニュアンスが生まれるが、茶褐色の毛並みが、薄い色になってしまい、毛が光を反射していたりすれば"金色の驢馬"と呼んでもおかしくない。そんな程度なら、どうということもない話となる。

多分、そんなところではないかと思われるものを取り上げてみたい。

驢馬が、可愛がっていたご主人が亡くなったので、野生化。山中で自由気ままに生活とあいなる。時々、その姿が目撃されていたので、それが伝説化してしまったようだネ、との指摘。・・・

金驢,
晉僧朗住金山,及卒,
所乘驢上山失之。
時有人見者,乃金驢矣。
樵者往往聽其鳴響。
土人言:
 “金驢一鳴,天下太平。”
[卷八 支動]
晋の時代。
金楡山の朗法師がお亡くなりに。
法師が何時も乗っていた驢馬が入山してしまい、行方知れずに。
ただ、時に、山に入った人が
黄金の驢馬を見かけることがあった。
土地の樵達も、往々にして、響き渡る鳴き声を耳にしていた。
そんなこともあり、地元の人々曰く。
「黄金の驢馬が嘶けば、
  まさに、天下泰平なり。」


山の地は山東盧県[@山東済南長C西南]東。
瑞山と呼ばれていたようだが、朗法師がそこに精舍を立てたのが351年と伝わる。当然ながら、山東の古刹ある。俗称は当然のことながら郎公寺だが、帝が神通寺と名付けたようだ。東は青竜山、西は白虎山で、間が金輿谷と呼ばれたらしい。

これだけでは、金と呼ばれる由縁がよくわからないが、それが読み取れる一文がしっかりと用意されている。(別な篇に収録されているので、すぐにはわからないように仕組まれている訳だが。)

朗法師は伽藍運営費用を布施だけでまかなうようなことをしていなかったのである。100%パトロン依存は人々との接点を失いかねないから避けたかったのであろう。
一見、伝説的な調子の話だが、瑕丘[@山東州]の市場で商売をしていたとの実話であろう。(だからこそ、商品運搬用の驢馬が必要なのである。その名は"金"、略して、"金驢"だったに違いない。)・・・

盧縣東有金山,
昔朗法師令弟子至此采莢,
詣瑕丘市易,
皆化為金錢。

  [卷三 貝編]

莢/銭とは黒[ニレ]樹の嫩果[種子]のこと。果熟期は4月上旬。勿論、幼葉ともども食用。美味しいとは思えないが、緑の銭の形での縁起担ぎでウキウキしながら、春の野趣を楽しんだのだろう。
そんな風習に応えて、谷の地で、広大な挿し木栽培を行っていたのは間違いない。
 「和人題真娘墓」  李商隠@全唐詩卷541-55
虎丘山下劍池邊,長遣遊人嘆逝川。
樹斷絲悲舞席,出雲清梵想歌筵。
柳眉空吐效顰葉,莢還飛買笑錢。
一自香魂招不得,隻應江上獨嬋娟。


言うまでもないが、この一帯も戦乱に巻き込まれてしまう。そうなれば、大伽藍であろうが、一気に衰退。すべてが持ち去られる。天下泰平という言葉がまさしく死語の世界となる。
"金驢"とは、まさにノスタルジーの世界ということになる。しかし、それは山東だけに当てはまるのではなく、峡西を始めとして、中華帝国内すべてに言えること。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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