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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.6 ■■■

[学び] 金剛般若經への知的興味

「續集卷七 金剛經鳩異」の序〜第2譚をとりあげたが、この手の話を続けていると、仏教徒 段成式の意図がわからなくなってしまうかも知れないので、ご注意ということで、小生が考える、「金剛経」の段成式的見方を記載しておこう。

と言っても、成式の思いが直接的に吐露されることはないので、至極わかりにくい。しかも、現代人にとっては、鬼神的信仰から来る話とか、怪奇現象伝承譚が収録されているから、金剛經鳩異の霊験も同じ類と見なしがち。しかし、成式は鬼神を信じていないし、仏典に通暁しており、指導的仏僧とも懇意な仏教徒である。従って、同じ気分で収録している筈がないのである。

ただ、すべての話は同一基準で収載されており、様々な"奇譚"といっても、創作話ではなく、成式が耳にしたり書物から引用した"事実"である点を忘れてはなるまい。成式は、そうした事実に関しての評論は一切していないびである。
このことは、金剛經霊験談は、生物観察記、風俗探訪記、長安寺院巡礼記と横並びに扱われていることを意味する。淡々と事実を記載しているに過ぎないのだ。

従って、読者諸兄は、これらのお話をどう読むかネ?と問うていると言ってよいだろう。
新しい情報を得て喜々として暗記するだけの人にとっては、ナンダコリャのトンデモ話だらけの書物となる訳で、おそらく、読んでも時間の無駄と感じるだろう。
成式は当初からそれを狙っていた可能性かも知れぬ。

そう思って読むと、「酉陽雑俎」とは、段成式的仏教書かも知れぬという気になってきたりするのである。・・・
小生、昔、何冊かの仏教解説書を一気に乱読。浅学なせいもあるが、いずれも仏典用語解説だらけとの印象しか得られず、ガッカリさせられた覚えがある。当然ながら、知りたかた釈尊の「悟り」の意味はさっぱりわからずで終わった。
勿論、道徳あるいは倫理に係わる逸話も収載されてはいるが、それと「悟り」の繋がりが見えてこないし、ましてや、その話を切欠として考え方が変わった人の例が持ち出されたりするから、さらにわからなくなるのである。随筆として読めということなのであろう。


さて、この「金剛般若波羅蜜経」だが、わかったような、わからない概念である"空"を最初に持ち込んだと言われている。
ともあれ、それは、悟りで得られる「般若[=智慧]」の核心部分であることは間違いない。

どうして、わからないのかは、鈴木大拙[1870-1966年]:「『金剛経』の禅」を読めばすぐにわかる。・・・
「佛説般若波羅蜜、即非般若波羅蜜、是名般若波羅蜜。」[仏は、"般若波羅蜜"を説くが、即ち"般若波羅蜜"では無い。これにより、"般若波羅蜜"と名付けるのだ。]という記述が"般若系思想の根幹をなしてゐる論理で、また禅の論理である、また日本的霊性の論理である。"と解題。
マ、それは当然の指摘で。この手の論理で埋め尽くされているからだ。
この文章を、認識論風に記載すれば、"山は山ではない、川は川でない、それ故に、山は山で、川は川である"となり、"一般の考え方から見ると、頗る非常識な物の見方だと云ふことにならざるを得ない"。しかし、これこそが、"本当の物の見方だといふのが、般若論理の性格"とされている訳だ。
大陸的な神ありきの発想からすれば、"神は神にあらず、故に神は神である。"という論理になり、俗人にはナニガナニヤラだが、世の中は神の愛でできあがっているという神秘主義者の教義なら、どうということもない文章と言えなくもない。

「酉陽雑俎」を読んでいたら、絶対にこのような発想は浮かんでこないのでは。

当該箇所はこうなろう。・・・
仏陀が言うところの、"般若波羅蜜"とは、世間に通用している"般若波羅蜜"と呼ばれる概念とは全く違う。それは、悟りに至らない者がつい想ってしまう幻想的実体にすぎぬ。概念には実体はあるようで、その実は無いのである。だからこその"般若波羅蜜"なのである。

そう断言してしまうのは、「金剛般若波羅蜜経」は哲学的あるいは形式論理学的に記述されている訳ではないからだ。もちろん、"空"という用語も用いない。"空"の抽象的解説が主体と言わざるを得ない簡素な「般若心経」とは性格が全く異なるのである。
「金剛般若波羅蜜経」の主旨をまとめれば、一切の執着心を捨て、純粋な布施の精神で生きヨということになろう。釈尊と長老の須菩提の間での、説教会話がいかにも冗長に、これでもかという如くに並ぶ経典なのである。しかも、そこでは、"教え"とは、所詮は、誰かが名付けたものにすぎず、そんなものにたいした意味はないとの見方まで披瀝。
凄い経典なのだ。(末尾の「金剛教の構成」参照)

そのような経典ではあるが、「金剛經鳩異」に収録されている霊験がそれとどう関係あるかといえば、全く無縁と言わざるを得まい。

しかし、信仰とはもともとそういうもの。理屈など不要。
受持読誦が大いなる功徳になるということで熱狂的に愛されたお経なのである。(結果、業が消滅という点が大いに受けたのであろう。)
受持讀誦此經,…先世罪業則為消滅,
…能受持讀誦此經,所得功コ,…
[能淨業障分第十六]

鈴木大拙は禅の論理で埋まった経典としているが、成式の時代は密教的呪書であったということになろう。もちろん、一部の僧侶の間で、解釈論議は凄まじいものがあったろうが、長期的にみればそれが中華帝国において仏教が駆逐されることに繋がったと言えないこともないのである。仏教勢力がいかに意気軒高でも、風土に合わない方向に進めば、結局のところ駆逐されるのである。(泰山経石硲金剛経刻石など、"廃仏なにするものゾ"の意気の結晶そのもの。その経典は金剛般若波羅蜜経以外に考えられなかったのである。)

成式は、その辺りを見通していた可能性が高い。現実を冷静にかつ俯瞰的に眺めているからだ。

当然ながら、「金剛經」の内容についても一家言持っていただろうが、経典解釈の議論に耽るタイプではない。なかでも嫌いなのは論理的正当性について云々すること。"正当性"とは、相対的なものであり、それよりは先ず現実をしっかり見据えるというか、観察することが出発点と考えていただろう。
それこそが"真の"知的営為ということ。

従って、仏教徒であっても、信仰にのめり込むこともなかったろう。道士を師として仰いでもかまわぬという態度をとった筈である。その一方で、ドグマ的な高位仏僧を唾棄すべき人間と見なしていた可能性が高い。
成式にとっては、仏教とは、知的刺激だらけの宗教だったということでもあろう。その象徴的経典が「金剛般若波羅蜜経」。

 ─・─・─ 「金剛般若波羅蜜經」の構成 ─・─・─
【1】法会因由分…
    祇園精舎でのこと。そこには、弟子衆1,250人。
    釈尊は城内で朝の乞飯から戻って来て、座したところ。
[祇園精舎の由来] 身寄りのない者に施しをしている須達多という名前の長者が、釈尊説法の場たる寺院を建造しようと思い立つ。そこで、祇陀太子所有の林を入手しようと。そこは、素敵な地で太子も愛着があったため、超高額にして諦めさせようと図った。ところが、長者は喜んで購入しようという姿勢を示した。太子はその熱意に驚いて喜捨。両者の名前を組み込んで、"祇樹給孤独園精舎"と呼ばれるようになった。
【2】善現起請分…
    長老の須菩提、釈尊に訓示を乞う。
    そこで、菩提心について語ることに。
【3】大乗正宗分…
    自我や生命という実体に囚われるな。
【4】妙行無住分…
    囚われることなき施しをせよ。見返りを期待してはまらぬ。
【5】如理実見分…
    如来の特徴を目指してはならぬ。真の如来に特徴など無いからである。
【6】正信希有分…
    法に囚われるな。
【7】無得無説分…
    如来が作った法とか、説いた法など無い。
    そんなものを説明できる訳がないからだ。
【8】依法出生分…
    仏法とは、仏法に囚われないから、仏法なのだ。
【9】一相無相分…
    称名を得ても、何かを得たと考えるな。
【10】荘厳浄土分…"應無所住而生其心。"
    仏土に住むとは、実体ではなく、それを越えた心を意味する。
【11】無為福勝分…
    功徳を重ねるだけでなく、その意義を広めよ。
【12】尊重正教分…
    衆生のために法を説くことこそ、知恵の塊。
【13】如法受持分…
    法を説き明かす法こそが究極の功徳だ。
【14】離相寂滅分…
    法に囚われた布施をするな。
【15】持経功徳分…
    小乗に止まらず、大乗を求めよ。
若有善男子,善女人,初日分以恆河沙等身布施,中日分復以恆河沙等身布施,後日分亦以恆河沙等身布施,如是無量百千萬億劫,以身布施;若復有人,聞此經典,信心不逆,其福勝彼,何況書寫、受持、讀誦、為人解説。
【16】能浄業障分…
    受持、読誦、説法で悪業を清算すべし。
【17】究竟無我分…
    衆生を涅槃に導く決意は、無我の法に反する。
【18】一体同観分…"過去心不可得,現在心不可得,未來心不可得。"
    心は遷ろう。
    無数の衆生の心が存在することをわきまえよ。
【19】法界通化分…
    無量の功徳も、実があったら功徳にならぬ。
【20】離色離相分…
    色身や諸相のような外見は妄想だから求めるな。
【21】非説所説分…
    菩薩には、教示すべき法はないし、説く対象の衆生もいない。
【22】無法可得分…
    如来は、法を得た訳でないからこそ、菩提を悟ったのである。
【23】浄心行善分…
    法には差別など皆無で、我も衆生も無いのである。
【24】福智無比分…
    法を施すことは、比類なき功徳。
【25】化無所化分…
    如来は凡人とかわらず、救える訳ではない。
【26】法身非相分…
    三十二相だから如来なのではない。
【27】無断無滅分…
    菩提心を発すると、諸法が断滅されるなどある訳がない。
【28】不受不貪分…
    囚われないからこそ功徳になる。
【29】威儀寂静分…
    如来が、来る、去る、座る、臥せることはない。そこに居るからだ。
【30】一合離相分…
    大世界も、それを粉微塵にした世界も、実体は無い。
【31】知見不生分…
    如来の説く法の見解は、如来の考えではない。
【32】応化非真分…
    "結論"
   一切有為法
   如夢幻泡影
   如露亦如電
   應作如是觀
    智慧の教えを学び、もっぱら施せ。
    現象界は、
    夢、幻、泡、影、のようなもの、
    霧、雷のようなもの、と考えよ。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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