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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.17 ■■■

唐詩人[劉得仁]

劉得仁[長慶年間作詩, 生卒年籍貫皆不詳]は、特に注目される詩人でもないし、特色ある詩があるでもなく、文学史上で大きく取り上げられることもなき唐代の詩人。都の自邸(通濟坊里)に住んでおり、物質的には、なんの苦も無い生活を送っていたようだ。
ところが、南方に旅に出て逝去との報を耳にすると、皆、争って哀悼の詩を詠じたという。"公主(順宗の娘)之子"なのに、兄弟とは違って官職を得ようとせず、30年間科挙一途だったが、及第ついにならずだったかららしい。それもあって、"愁苦吟呻"の詩人と評価されているようだ。(「全唐詩」卷五百四十五 劉得仁 詩詞全集には134首収録。)

「哭劉得仁」 僧 栖白 (浙江人)
 爲愛詩名吟至死,風魂雪魄去難招。
 直須桂子落墳上,生得一枝冤始消。


劉得仁の姿勢をどう読むかは難しいが、実は、本心では官僚など御免被るという気分だった可能性が高い。起用されれば面倒なゴタゴタに巻き込まれること必定。それに、気心知れた人々だらけの長安から離れた生活をしいられることになる訳だし。
この辺りは、官僚としての仕事をしっかり勤め上げてきたいた段成式とはかなり違う。
松岡秀明:「劉得仁論」東京経済大学人文自然科学論集 125 2008年

敬虔な禅宗系仏教徒だったようで、都会人ではあるものの、できれば自然のなかで生きていきたいと考えていたようだ。
長安 新昌坊に存在した青龍寺をよく訪れていたと思われる。(青龍寺の最期を予感していたかも。現在、西安南郊にある寺は址に建立したモノ。おそらく、空海逗留ということでの再建。)
「青龍寺僧院」
 常多簪組客,非獨看高鬆。此地堪終日,開門見數峯。
 苔新禽跡少,泉冷樹陰重。師意如山裏,空房曉暮鍾。

「晩秋興友人游青龍寺」
 高視終南秀,西風度閣涼。一生同隙影,幾処好山光。
 暮鳥投木,寒鐘送夕陽。因居話心地,川冥宿僧房。

その心根が一番わかる詩はコレだろうか。・・・
「宿僧院」
 禪寂無塵地,焚香話所歸。
 樹搖幽鳥夢,螢入定僧衣。
 破月斜天半,高河下露微。
 翻令嫌白日,動即與心違。

   "僧院での宿泊"
 お香の薫るなかで、静けさに囲まれ、座禅三昧。
 そして、僧や友人達との語らいの愉しきこと。
 樹木は揺れ、潜んでいる鳥を夢から覚ます。
 蛍が、暗闇のなかで禅の境地に入った僧の衣のなかに入ってきた。
 欠けている月は、天空の半ばで傾きつつある。
 天の川は、密やかに、細やかな露を振り撒いてくれた。
 翻ってみれば、白日の下での生活には嫌気がさしてくる。
 自分の本心とは違う動きばかりしてしまうからだ。


日本では有名な慈恩寺の方も、勿論のこと題材にしている。いずれもお洒落な詩である。
「晩遊慈恩寺」
 寺去幽居近,毎來因採薇。伴僧行不困,臨水語忘歸。
 磬動青林晩,人驚白鷺飛。堪嗟浮俗事,皆與道相違。

「夏日遊慈恩」
 何處消長日,慈恩精舍頻。僧高容野客,樹密絶囂塵。
 閑上凌虚塔,相逢避暑人。却愁歸去路,馬迹竝車輪。

「慈恩寺塔下避暑」
 古松凌巨塔,脩竹映空廊。竟日聞虚籟,深山只此涼。
 僧真生我靜,水淡發茶香。坐久東樓望,鐘聲振夕陽。


そんなこともあって、段成式邸の広大な庭園"修竹里"を愛でていたようである。[→「身近な水生植物」]
「初夏題段郎中修竹里南園」 
 高人游息處,與此曲池連。
 密樹才春後,深山在目前。
 遠峯初絶雨,片石欲生煙。
 數有僧來宿,應縁靜好禪。


それなりに馬があったのではなかろうか。[→「唐詩人史」]
「和段校書冬夕寄題廬山」
 名高身未到,此恨蓄多時。是夕吟因話,他年必去隨。
 嘗聞廬嶽頂,半入楚江。幾處懸崖上,千尋瀑布垂。
 爐峰松淅瀝,湓浦柳參差。日色連湖白,鐘聲拂浪遲。
 煙梯縁薜,岳寺歩欹危。地本饒靈草,林曾出祖師。
 石樓霞耀壁,猿樹鶴分枝。細徑岩末,高窗見海涯。
 嵌空寒更極,寂寞夜尤思。陰穀冰埋術,仙田雪覆芝。
 亂泉禪客P,異跡逸人知。蘚室新開潭未了棋。
 如何遂閑放,長得在希夷。空務漁樵事,方無道路悲。
 謝公台尚在,陶令柳潛衰。塵外難相許,人間貴跡遺。
 雖懷丹桂影,不忘白雲期。仁者終攜手,今朝預賦詩。


韋莊の墓碑を引用して劉得仁に関するお話の〆としよう。
 至公遺至藝,終抱至冤沈。名有詩家業,身無戚里心。
 桂和秋露滴,鬆帶夜風吟。冥寞知春否,墳蒿日已深。


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