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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.18 ■■■

唐詩人[無可と無本]

無可[867-833年]は曲江での奇譚話をした詩僧である。青龍寺に居住していた頃ではないかと思う。普通は、大安國寺@長樂坊里寂照和尚と呼ばれていたようだ。[→「長安の奇譚」]
賈島の從弟で少年時出家と伝わる。

段成式は《寂照和尚碑》@安国寺西南隅開元18年[730年]造現[@「唐両京城坊考」巻三]の書を担当した。懇意だったのは間違いなかろう。(碑文は末尾。)
[→拓本解説@涿州博物館] [→無可楷書書籍(唐文833年)@個人図書館]

こんな作品も。
   「奉和段著作山居呈諸同志三首次本韻」
 香花懷道侶,巾立雙童。解印鴛鴻内,抽毫水石中。
 履温行燒地,衣赤動霞風。又似朝天去,諸僧不可同。
 官辭中秘府,疏放野麋齊。偃仰青霄近,登臨白日低。
 折腰窺乳竇,定足渉冰溪。染翰揮嵐翠,僧名幾處題。
 暫收丹陛跡,獨往亂山居。入雪知人遠,眠雲覺俗虚。
 足垂岩頂石,纓濯洞中渠。只見僧酬答,新歸絶壑書。


当然ながら、青龍寺の作品がある。
[以下所収:「全唐詩」卷八百一十三/八百一十四 無可]
   「題青龍寺縱公房」
 從誰得法印,不離上方傳。夕磬城霜下,寒房竹月圓。
 煙殘衰木畔,客住積雲邊。未隱滄洲去,時來於此禪。
   「秋夜寄青龍寺空貞二上人」
 夜來思道侶,木葉向人飄。精舍池邊古,秋山樹下遙。
 磬寒徹幾裏,雲白已經宵。未得同居止,蕭然自寂寥。
   「寄青龍寺原上人」
 斂入寒竹,安禪過漏聲。高杉殘子落,深井凍痕生。
 罷磬風枝動,懸燈雪屋明。何當招我宿,乘月上方行。

寒くなると来訪する人も減り、夜を迎えれば茫々寂々とした静謐感に浸るしかなくなるが、その風情がたまらないのであろう。

無可の作品として比較的知られているのは、こんなところ。
   「送李騎曹之武寧」
 一一歸寧,凉天数騎行。
河来当塞曲,山遠与沙平。
 縱獵旗風卷,听笳張月生。新鸿引寒色,回日満京城。


茶席の禅語選によれば以下の詩は禅語録に登場するらしい。("夜もすがら雨と聽いたのは落葉の音であつた。山居の幽趣。盡き切る處に一切の妙用が許される。"[柴山全慶:「禅林句集」其中堂 1954年])
   「秋寄從兄賈島」
 暝虫喧暮色,默思坐西林。
聽雨寒更徹,開門落葉深。
 昔因京邑病,并起洞庭心。亦是吾兄事,遲回共至今。

自然の声を聴いたということであり、それは仏の本性でもある。茶席に用いられる理由はそこにあるのではなく、漢詩を眺めて和歌を感じとることにあるのでは。
 秋の夜に 雨と聴こえて 降りつるは
  風にみだるる 紅葉なりけり

     紀貫之 [後撰和歌集巻第七 秋歌下#407]

無可の従兄とされるのが、法門兄弟として生きた賈島[779-843年]。推敲という言葉を生んだことで知られる。(一字に拘るため、「僧は推す月下の門」の"推す"を"敲く"にすべきか徹底して吟味したとされる。師匠格の韓愈に相談し決定。)

賈島とは、韓愈に勧められて還俗仕官してからの名称で、僧侶時の号は無本である。還俗後の自號は"碣石山人"。
   「送無可上人」 賈島
 圭峰霽色新,送此草堂人。麈尾同離寺,蛩鳴暫別親。
 獨行潭底影,數息樹邊身。終有煙霞約,天台作近鄰。


賈島は、結局のところ、貧窮のなかで死去したようだが、白楽天的な平易な方向を嫌ったのだろう。
その作品。・・・
   「旅遊」
 此心非一事,書若為傳。
舊國別多日,故人無少年。
 空巣霜葉落,疏水螢穿。留得林僧宿,中宵坐默然。

すでに引用した部分から段成式の書きっぷりを見て〆としよう。[→「廬陵官下記」] [→「唐詩人史」
・・・
 因説故相牛公揚州賞秀才希逸詩「蟾蜍醉裏破,蝶夢中殘」,毎坐吟之。
 予因請坐客各吟近日為詩者佳句,
 有吟賈島「舊國別多日,故人無少年」。


《寂照和尚碑》(「全唐文」卷七百八十七 段成式)
釋氏徒尼者,雖不轍乎意地,而形骸之外,是ス是輻。火宅煽赫,羊鹿效駕。亦各也視中夏聖人。刑自墨數三千,或由性戻,將墨而之贖金也,將贖而之晝衣慚懼也。以至蹙芻視袷,未嘗犯者。信生於手,郷可約束,至顏氏子也。西方聖人設戒二百五十,俾堤限身口,徑出生死,今言法者喉舌鏑鎧其人。我性鏝戻垢,不常澡雪,近非延奘,或不能孕業人天也。言禪者失之理,漸磴一念五位不及能者,吾見其為泥人,若射箭也。至乎畛生死之流,身口之岐,其在尼乎。國初有宣聲乎尼,寂寂然將二百年,有照公嗣焉。
大コ號寂照,字法廣,族氏。京兆興平人。父詮,灌鍾府折衝鎮於咸陽馬泉精祠。母竇氏,嘗夢禮掌塔,既而有娠,不嗜葷腴。及産,吮而不啼,敏而始誰。竇氏日滋善種,福穎碩,請介處不,其夫許之。塊然若居士之室,太常之齋也。雖口於床,將不觸。遂同謁總持寺積禪師,始具五戒,大コ隸執。年ム七,宇泰定者,i如顛白。積公異之。父即留為童,俾勤汲煬,不難辭別。初讀《法華經》,五行下。次授《維摩經》《舍論》,未終熱際腹三百幅。衆號神童,遂毀發焉。如匠之度木,中若蠹蠍,心入震火,叩之其聲虚嘶,為桴則速腐,不能久持大廈。故鼓地之桐,大士之種也;澗梓之腹,大士之聲也;荊氏之林,大士之用也。而猊弦號種,一鼓殷然。
大暦十四年,西明寺遇方等壇試得度,隸於慈悲寺。初肄《四分》,勤不交睫。即開講於海覺寺,著名兩街。後弋誌於《涅槃經》《起信論》。功汰六塵,理混四生。壞堤激,宗流於性。或有墨守慢_,利喙三尺,一被偈答,暗革. 範,固耶比邱不足以解疑悔也。貞元六年,詔無優王寺舍利,因遊鳳翔。檀律學者從而響臻。大コ規規不怠,處衆如表,影惟直矣。或珥多羅葉者,蒲萄蔓者,不病麺而鑒壁者,染瓜而半月形者,誌慚由右門而出也。
十年春,將夏於清涼山。清涼山曼殊大士是司鱗長,遊之不誠,必有疾雷烈風。大コ胝膜拜,終日不息。見若白構而梁,木散而缸,虞乳剽於霓末,戟網栂於曦表。其光大而直,細而螢滴,詭状雲互,影電。千變萬化,不可窮極。居山雪首者驚曰:「自有此山,未有此相。」由大コ行潔誠著也。因及蔚州,入到此山。險如楞伽,勢如喬陟。檜駢植,衢柯四布。夏籟所及,百俊苔色。其下榻車夜千,錦攣。相傳云普賢地也。大コ望麓一禮,五雲觸石。越一年,之太白。復賓於,止發會福慶寺。往來於渭濱塢間。十餘年後,教授隴州。稠林槎,魔界日蹙。時昭義劉公在普潤,息女出家,請大コ具戒焉。
元和初,_鍾創鉅,戚難跂及。至三年,於咸陽魏店立尊勝幢,祈褫法界也。其年功コ使請住安國寺,尋移聖容院。俾二望僧主之,錫二時服,各_七人,大コ一數也。自長慶中、寶暦末、太和初,皆駕幸安國寺,大コ導於前蹕,儀容偈答,不隔旒\。因詔入内,夏於神龍寺。太和二年,來延唐寺。數乎菩提,乎禪冉_。七年冬季,上弦而疾,下弦而病。將化之夕,異香滿風,體可折支。其月闍維於寺北原。僧年七十六,僧夏五十七。置幢於積祖師塔院。門人神晏、初紀日於幢,其詞蔚然矣。門人律大コ智文其行唯肖,門人契元駕説者也。大コ設元構,心跡規矩,若日出於湯穀,至於昆吾,是謂正中。其徒化之,賓賓然不差淨觸。噫!大コ之去,佛日虞泉矣。門人興善寺實相上人,惡俗決𤴯處塵外,嗣師之志。以成式腹笥三藏,請詞其コ。銘曰:
汗汗元流,導於港溝。覺路垣夷,麕其。燧明厚夜,業白東。由之不懈,二乘其。惟宣斯述,惟寂斯紹。傴樛枉,影直其表。性苦擢,貌寒聳冰。珠數絶貫,衣持壞。志完海嚢,為正法朋。堤防意地,林猿不騰。蔔惟嗅,多羅不斷。鳴癡翼慧,無明破卵。燼其業,弦厥乘緩。駛絶中流,平。一雨濯枝,嵐鼓翰。偈古雲碧,庭秋桂丹。群木繩方,衆景圭端。資糧跣,長途僅半。然而往,慧曦晩,卯樹實。萎霜苑,甚垢斯濘。衆縛斯繭。覺源ム,大宅災。迪豪昏,品蓮凋。行著高石,劫窮不消。

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