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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.23 ■■■

唐詩人[段文昌]

段成式の父、段文昌[772-835年]には文集30巻があったらしいが、残存していない。"其服飾玩好、歌童妓女,苟ス於心,無所愛惜,乃至奢侈過度,物議貶之。"[「舊唐書」列傳卷一百六十七]の人との評価。
詩だが、4作品のみ伝わっている。[「全唐詩」卷三百三十一]
   「題武擔寺西臺」
 秋天如鏡空,樓閣盡玲瓏。水暗餘霞外,山明落照中。
 鳥行看漸遠,松韻聽難窮。今日登臨意,多歡語笑同。

   「晩夏登張儀樓呈院中諸公」
 重樓窗戸開,四望斂煙埃。遠岫林端出,清波城下回。
 乍疑蝉韻促,稍覺雪風來。並起郷關思,銷憂在酒杯

   「還別業尋龍華山寺廣宣上人」
 十裏惟聞松桂風,江山忽轉見龍宮。
 正與休師方話舊,風煙幾度入樓中。

   「郊廟歌辭 享太廟樂章 象コ舞」
 肅肅清廟,登顯至コ。澤周八荒,兵定四極。
 生物咸遂,羣盜滅息。明聖欽承,子孫千億。


西川節度使の段文昌が、秋の好天の下での西台と、晩夏に成都高台にのぼった際の詩が残った訳だが、これに引き続いてた掛け合い作品も所収されている。
   「奉陪段相公晩夏登張儀樓」 姚向
 秦相駕群材,登臨契上臺。査從銀漢落,江自雪山來。
 儷曲親流火,凌風洽小杯。帝郷如在目,欲下盡裴回。

   「和段相公登武擔寺西台」 姚向
 開閣錦城中,餘閑訪梵宮。九層連晝景,萬象寫秋空。
 天半將身到,江長與海通。提攜出塵土,曾是穆清風。

   「和段相公登武擔寺西台」 温會
 桑台煙樹中,台造雲空。眺聽逢秋興,篇辭變國風。
 坐愁高鳥起,笑指遠人同。始愧才情薄,躋攀繼韻窮。

   「奉陪段相公晩夏登張儀樓」 温會
 危軒重疊開,訪古上裴回。有舌嗟秦策,飛梁駕楚材。
 雲霄隨鳳到,物象為詩來。欲和關山意,巴歌調更哀。

   「和段相公登武擔寺西台」 李敬伯
 臺上起涼風,乘閑覽功。自隨台席貴,盡許羽觴同。
 樓殿斜暉照,江山極望通。賦詩思共樂,得詠詩豐。

   「奉陪段相公晩夏登張儀樓」 李敬伯
 層屋架城隈,賓筵此日開。文鋒摧八陣,星分應三台。
 望雪煩襟釋,當歡遠思來。披雲霄漢近,暫覺出塵埃。

   「奉陪段相公晩夏登張儀樓」 姚康
 登覽晴開,詩從野思來。蜀川新草木,秦日舊樓臺。
 池景搖中座,山光接上臺。近秋宜晩景,極目斷浮埃。

   「和段相公登武擔寺西台」 姚康
 松徑引清風,登臺古寺中。江平沙岸白,日下錦川紅。
 疏樹山根淨,深雲鳥跡窮。自慚陪末席,便與九霄通。


段文昌は蜀の地域に住んでいた頃、豪奢な生活をしていたようだが、その割に人気があったようだ。北方的な宗教的規範の強制を嫌い、周辺勢力とは戦乱防止に努め、開放的な社会を志向し、歌舞をはじめ文芸を奨励したので経済が好転したのだろう。息子の段成式もこの姿勢を踏襲したということ。同様な体質だった白楽天も、自分は特段の政策を実施した訳ではないが、善政ということで慕われたと吐露しており、それは謙遜ではなく実際そうだったと思われる。
マ、上記の掛け合いは慣習であるが、良き為政者ということで、政敵による抹消を逃れて残存したのではないか。詩友も多く、慕う人も少なくなかったろう。以下も慣習的な詩である。
   「奉陪楊使君送段校書赴南海幕」 皎然[730-799年]
        [「全唐詩」卷八百一十八]
 碩賢靜廣州,信爲天下貞。屈茲大將佐,藉彼延閣英。
 聲動柳呉興,郊餞意不輕。吾知段夫子,高論關蒼生。
 處以コ爲藩,出則道可行。遙知南樓會,新景當詩情。
 天高林瘴洗,秋遠海色清。時泰罷飛檄,唯應頌公成。


詩友に詠われた詩は膨大だったと思われるが、薛濤の詩の存在が光る。821年に剣南西川節度使となった時のものだと思われる。
   「贈段校書」
 公子翩翩説校書,玉弓金勒紫裾。
 玄成莫便驕名譽,文采風流定不知。

   「段相國游武擔寺病不能從題寄」
 消痩翻堪見令公,落花無那恨東風。
 儂心猶道青春在,羞看飛蓬石鏡中。

薛濤[768-831年]は、元、牛僧孺、張籍、白居易、令狐楚、劉禹錫、張、段文昌と往來した詩妓で、西川節度使の官妓だった。
そんなこともあってか、墓誌は段文昌作らしい(「蜀箋譜」)。832年に劍南西川節度使(終官)となった時の事であろう。

段文昌はこの調子で活動してきたので、世話になった人も多かったろう。そんなこともあって、段成式は官職を得ることができた訳である。

*** 蜀中廣記 (四庫全書本)巻一百二] ***
【段文昌】太尉鎮益州
 「還別業尋龍華山寺廣宣上人」詩云
 十里惟聞松栢風,江山忽轉見龍宮。
 正與休師方話舊,風煙幾度入樓中。
【郭震】亦有
 「題龍華山」詩曰
 昔年曽到此山囘,百鳥聲中酒一杯。
 最好寺邊開眼處,段文昌有讀書臺。

太尉【李コ裕】出鎮渚宮
嘗謂賓侶曰:
 余偶欲賦「巫山神女」一詩下句云
 "自從一夢高唐後,可是無人勝楚王。"
 晝夢宵征、巫山似欲降者何如?
段記室成式曰:
 屈平流放湘、椒蘭久而不芳、卒葬江魚之腹、為曠代之悲。
 宋玉則招屈之魂、明君之失、恐禍及身、遂假高唐之夢、以惑襄王。
 非真夢也。
 我公作神女之詩、思神女之會、惟慮成夢、亦恐非真。
李公退慚。
其文不編集於卷也。(出「雲溪友議」)

…楚 襄王が巫山で神女と契を結んだ。しかし、その後、どこへ行ってしまったのだ?という話。

(該聞録云)
【段文昌】鎮成都。
 子【成式】好獵。丞相患之。
 【成式】以所獲雉兎分送。
 幕僚各致書援引故事甚悉幕僚多不曉其義以呈。
 丞相方知其子博學。

【成式】酉陽雜爼云
予在城因説故相牛公賞
  揚州秀才希逸詩
  "蟾蜍醉裏破 蝴蝶夢中殘"
毎坐吟之
予請客各吟
近日佳句因記
蜀中客 
予毎云
 "寒雲生易滿 秋草長難高"之句

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