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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.24 ■■■

「塑像記」の意味

「塑像記」@859年の一部を引いて、段成式は《正法念經》を好んでいたようであると記載したが[→]、言い方を変えれば、当時の大乗仏教の全体系を記載したような経典にしっかりと目を通して考えていたということ。
従って親譲りの「金剛経」信仰者であるものの、決して世間的な"流行"に合わせている訳ではなく、仏教全体像を踏まえ、その信仰実態を冷静に眺めることができたのであろう。だからこそ、仏教勢力の腐敗した姿についても記載できる訳だ。

・・・と考えれば、なんとなくではあるものも、「酉陽雑俎」には成式的仏教史観に基づいた仏教的自然視感書。それは、自分の没後に仏教がどうなって行くかも示唆している訳だ。
だからこその"酉陽"というタイトル設定なのだ。
西洋的な博物学書とは、創造者が定めたルールとはどのようなものか分析的に探っていくもの以上ではないが、「酉陽雑俎」は人々が眺めている自然世界とはこのようなものであると提示しているので読者の洞察力を喚起することになる。
そんな成式の姿勢を感じ取った人達が大勢いたから、この書籍が残ったと見てよかろう。
地誌的に記載されてはいなものの、描かれたているのは人の眼で捉えられた"事実"なので、いずれも風土を反映したモノがならんでいるので、読者は中華帝国の宗教的風土を実感できるようになっている点もそれを後押ししたであろう。

ただ、成式に一番馴染みがあるのは、"酉陽"の蜀というか、四川盆地の内陸亜熱帯型地域の土着的風土のようだ。それを容認した大乗仏教が広がったため宗教的には道教として結実した訳である。両者は精力的には一見対立的に見えるが、実は表裏一体的なものと看破している点も特筆モノ。
一方、長江デルタや多くの湖沼を含む江南とその周囲は、明らかに大乗仏教が一番染み込んだ地。但し、北方は華厳経的な北方とは違い、涅槃経的色合いが濃厚。

これを踏まえて、歴史的視点が提供されているのである。オムニバス的に見える書籍だが、「唐」中華帝国が結節点を迎えたことを示した書でもある。
玄宗期辺りから、青龍寺を中心とする真言色が広まったことがわかるようになっているからだ。

ただ、知識を欠くと、読んでもわからない。・・・
不空三藏法師が「沙門儀軌」を翻訳。そして、"北方毘沙門天王隨軍護法儀軌 "により、「沙門天真言」を念ずるようになったことが全く記載されていないからである。玄宗の五胡乱平定依頼の勝利神信仰であり、帝室が仏教勢力のパトロンとなる根拠を明確にしたものと言ってよいだろう。(日本の状況から見れば、こうした都での動きに対応して南方でも動きがあり、その中心が天台山ということになろうか。)
・・・成式が「塑像記」で【沙門天】を取り上げているので、そんなことがわかる訳である。

ここで、見落としてならないのは、"宗族繁栄"を核とする宗教としての儒教は、仏教隆盛期には表にでてこない点。
"血族"を第一義にしている以上、隷属しない血族は絶滅させる以外に手がないのは明らか。その点で、本質的には仏教とは相いれないのである。
しかし、仏教がいかに普及しようと、中華帝国ありきである限り消えることは無い。血族としての帝一家による帝国支配構造には極めて親和性が強いからだ。一方、隷属させられた層にとっても、儒教が最優先されることになる。孫々まで、支配者へのリベンジが義務とされ、それをアイデンティティとすることで宗族が保たれるからである。

従って、中華帝国では安定した権力構造が壊れ始めると、仏教は急速に零落して、儒教が主導するようになる。戦乱回避的な儒教的道徳律とは、個人の精神構造支配まで進む社会を前提にしたものにすぎず、支配構造が揺らげば、隷属側による大転換の戦乱を防ぐどころか、新たな宗族支配を推奨する側に回るだけのこと。
つまり、帝と官僚の両輪で回る仕組みを完成させた中華帝国では、儒教以外は国教にはなりえない。仏教や道教の国教化は本質的に無理筋なのだ。

成式はその辺りに気付いたのだと思う。

と言うのは、インターナショナルな風土を愛していたからである。

ところが、宗族第一主義が表面化してしまうとこの逆を進むしかなくなる。"異民族は中華に隷属すべき"という姿勢しか取りようがないからだ。極めて好戦的と言ってよいだろう。

成式の時代、周辺民族と結ぶ勢力の自立化が目立ち始めており、中央統治機構も新興富裕層を基盤とする科挙登用官僚層の力も強まる一方だった。
どちらも、国粋主義的に動く勢力であり、その眼から見れば、インターナショナル勢力たる仏教勢力は目の上のたん瘤以外のなにものでもなくなっていたのである。
当然ながら、仏教は急速にパトロンを失っていく訳で、政治的な場面から排除されて行くことになる。


  *** 塑像記 ***
在世間攘巨寇,必思衽金浴鐵強矯雄毅者,雖空門亦忿怒麝撲,為法大防也。據内典,下天處蘇迷盧之半,為利尉候北方
沙門統藥義衆所治,水精宮城護世,其住處曰紛利,曰質多羅,曰七林,曰摩,曰如意等。下壓象跡,當歡喜之地;上接蜂歌,雜莊嚴之境。常屍迦將破怨敵聖者,奪勇健臂,出甲胄林,獨勝幢,不頓一戟。迦婁而垂翅,修羅而束手。猶怒折蓮柄,狂搜藕絲。蓋多聞位居初地,離十二失,故經云:沙門得方便救護之門。昔縛喝伽藍北虜,感夢而懺悔;近於聚落西羌,睹相而來降。其威神營衛,靈應,事無虚譯,世不絶書。相傳北方天王與瞻部有縁,謂西域瞿薩國,本天王棲神之處也。

廬陵(=江西 吉安)龍興寺西北隅,先有設色遺像,武宗五年毀廢。至大中初重建寺,其處為僧乾立所居。乾毎諂囈不安,旬日方晤。遽徙他室,ム哲造化方變,請押衙熊略為導首。輅遂與執白籌者郭宣熊師佐等縱臾閭伍,為説第一施,結搶繪潤B獲零貨貝共二十萬,輅厚自損徹,周功就。乃多聞儀形,嚴毅如生。眉結雲聚,目電撃,猛焔彗肩,蜂搶軒。金塗錯落而亂,形彩陸離而芒角,得工巧明矣。其或蠱刺瓜見,是不翅撃三屍磔五塚也。及素天女主藏神凡四四事。堂内三壁,寫載部落。雷公拗怒,忖留惡可畏也。
吉之人香火徼福,林篿乞靈,福既據我,靈詎乏主。
噫!予曾《正法念經》,説摩螳由攪齊日四天於此,會計閻浮提善業,豈容不歸敬與。

輅為學性端介敏辯,王公多伏之。複晤禪那宗要,得總持契訣,常持北方真言。大中三年病且死,忽夢天王操戟卓地,有泉迸射,摶之及麺。因驚覺,汗洽而愈。十二年,洪州狂賊盜兵殺吏,尋定州差輅上府,至新塗,夢天王支塑張目曰:「世途若此,爾欲何往?」即宿留數日。賊毛鶴果膾肝飲頭,尢恣殘酷,其踐較著如是。十三年秋,予閑居漢上,輅為交趾使入京,請予紀釋氏事。以上事請予明張北方,故實焉。


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