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2000.8.9
 
 


「ゆとり」教育のドグマ化…

 大学生の学力低下が知られるようになって、様々な雑誌に意見が載るようになった。そのなかで、目立つのが「学力は低下していない」という「ゆとり」教育推進派の主張である。学力低下の証拠を示さないで、議論しても意味などないという論旨のようだ。

 危惧していたが、予想通りの展開だ。「ゆとり」教育推進派に言わせれば、データをもとに、じっくり検討してきたから間違う筈は無いと考えるのであろう。当然の主張だ。しかし、これで不毛な論争が始まる。こうした議論をするなら、産業界は手をひかざるを得まい。
 産業界では、こうした視点からの議論は、激しい規格論争のような場合を除けば、比較的少ない。データを恣意的にとっているとか、単に間違った見方であるとの指摘などしたところで、得るところがないからだ。
 企業は一般に成果主義であり、原則は曲げないが、よさそうなら朝令暮改でも他人の主張を取り入れる体質がある。反論の趣旨を理解して、どうすると知恵を生かせるかを考えるのが普通だ。
 教育界は、成果より、面子を重んじる風土のようだ。これではとても議論などできまい。残念なことだ。

 「ゆとり」教育反対論者は、「ゆとり」が教育逃避型の人間を育成している現実を指摘している。「試験など無くし、のんびりさせるべし」という考え方の「ゆとり」教育なら、学力低下は避けられまいと予測しているわけだ。余裕を与えれば、生徒が自らの意志で勉学に励む、とは限らない。遊び回る生徒が増加するかもしれない。規格化され、コントロールされ、予算も乏しい教育を続けながら、「ゆとり」を与えれば自由に学ぶ生徒が増えると楽天的に考える根拠がわからないのだ。
 試験により、個人間、学校間格差を明確にさせないという方針のままでは、学力データさえわからない。この状態で、「ゆとり」教育を進めるのだ。学力を担保しているかは調べなくともわかるのであろうか。あるいは、「ゆとり」教育には、理論的に、学力低下の危険性はない、という主張なのかもしれない。


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