↑ トップ頁へ

2006.5.15
 
 


ゆとり教育とは…

 生徒の学力低下の実感があるから、流石に「ゆとり教育」支持者は減ってきたようだが、いまもって、この路線の正当性を信じる人は少なくないそうだ。

 今時、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」(1)とのスローガンに反対したり、単純な詰め込み教育に賛成する人がいる訳がない。
 そこで、知恵者が、その路線に沿うと称して「ゆとり教育」を打ち出すから、賛成してしまうようだ。

 「ゆとり教育」とは、教育内容を薄めて、教育時間を減らすことを意味するのに、どうして賛成するのか、実に不思議である。
 義務教育以外の教育を不可欠にしたいなら別だが、義務教育時間が減るということは、教育のレベルが落ちることになる。そんな施策を支持する人の気が知れない。

 などと言うと、教育時間は減るが、そのことで教育の質が高まるとの反論が返ってくる。ドグマ論者の考えることは理解できぬ。

 こうなるのは、創造性向上のためには何が必要なのか、まともな議論をしたことがないからだろう。

 本気になって教育の質を変えたいなら、「詰め込み型」教育に費やす時間を減らそうとの主張が最初にでてくる筈がない。
 一番の課題は、教育の「質」の転換である。にもかかわらず、教育内容を薄める「量」的削減策があがってくるのは、本気で「質」の転換を考えていないということである。
 (もっとも、義務教育の現実を見れば、“創造性に富む人の育成”を議論するレベルにあるか、大いなる疑問だが。)

 教育の質を変えたいなら、最初に始めるべきことは、才能とは何で、それを誰がどう見分けるか、はっきりさせることである。才能を定義せずに、才能を伸ばす政策が立案できるとは思えない。
 言うまでもなく、才能の定義は難しい。しかし、仮説でも、一応の見方を決めるしかないのである。
 そうでなければ、いつまでたっても低次元の議論から抜け出せない。

 「ゆとり教育」論が躍り出てくるのは、この議論をしないからである。

 簡単な例で考えてみよう。

 「うちの子は、本を読みません。どうしたらよいでしょう。」
 これは、別に珍しい現象ではない。そこらじゅうにある話だ。それでは、こうした子供の才能を伸ばすには、どうすべきなのか。
 これが現実の問題である。

 注意すべきは、この子供をどう見るかだ。ビジネスマンなら、この子供は「読まない」のではなく、「読めない」と見る。
 但し、間違えてはいけない。本を「読めない」子供は、必ずしも、文字が読めないのではない。
 文字をよく読めるからといって、本を読めるとは限らないのである。
 逆に、文字の知識が劣っている子供でも、喜んで本を読む子はいる。もちろん、絵本だが。

 どうしてこうなるか。(2)

 本を読むと想像が膨らむ。その楽しみを知っている子供は読書に走るだけのことである。文字の知識量が多いからといって、読書には繋がらないのである。

 この状況を見れば、ビジネスマンなら、絵本好きの子供に、文字を読めるように徹底的に指導すべきと考える。
 文字を通して、さらに広い世界に触れ、さらなる成長を期待するなら、当然の姿勢ではないだろうか。
 もし、この子供に、絵本を見続けることを称賛したら、文字が読めないままで終わりかねない。それでも良いなら別だが、そうでないなら、すぐに教えるべきだ。少なくとも、何時か、どこかで、学ばなければならないなら、子供にそのことを知らせる必要があろう。

 それでは、もう一方の、文字の知識量を増やすことに熱心な児童に対して、そんなに沢山漢字を覚える必要は無いから、その空いた時間に読書をしたら、と誘って効果があるだろうか。
 間違いなく、効果ゼロである。それは致し方ない。
 幼児時代に、お話を聞かされ、物語から想像力を働かせる喜びを味わっていなければ、読書の喜びはわからないからだ。
 しかし、何時か、その喜びを知る時が来るかもしれない。その時のために、必要な知識は叩き込んでおいて損はない。

 簡単に言えば、基礎学力なくして、創造力が発揮できるとは思えないということである。
 基礎学力低下に繋がる方策に賛成できる筈がなかろう。

 --- 参照 ---
(1) http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/21plan/p2.htm
(2) http://www.douwakan.co.jp/book_club/ehon_no_aru_kosodate/ehon_no_aru_kosodate.html


 教育の危機の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2006 RandDManagement.com